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カテゴリ:哲学研究室
文化の基礎を農耕に置くと、文化の根が見えなくなる。
照葉樹林を創ったのは人間ではない。人間が作ったのは農業の型の方である。つまり文化のクラスの方を創ったのである。 サークル活動を規定し、照葉樹林という自然のクラスに対応できる農業の、そして暮らしの型を創り上げていったのである。そのクラスはしかし、人間のこころそのものではない。人間のこころには、農業の型を表現する、文字や言葉の方が巣くっているのだ。 照葉樹林という、独特の自然の型を創り上げたのは農耕ではなくて、仲介者としての自然の力の方である。文化の基礎には、この仲介者の力が色濃く刻まれている。 人間が自然にいどみ、素材としての自然を変えて行くという西洋風の発想が頭に居座ってあると、この仲介力は見えないだろう。 しかし、こう考えていただきたい。人間の意志や、恣意的な想像力が、その文化を作り上げられるのか?と。 それは傲慢な、思い上がりというものである。 照葉樹林に生まれる農耕の型は、ほとんど自然に決まってしまう。 黒頭たちでなく白人や黒人がそこに来ても、似たような文化になる可能性が大きい。但し全く同じ物とはならないはずである。言葉が違い、暮らしてきた歴史が違う。それでも、自らの内に自然の仲介力を持つのは人間も照葉樹林地帯の方も同じ。 人間の意志や想像力は、独自に持つ文化という型に影響されながら、自然の中で、はぐくまれる。 つまり、文化の基礎に農耕があるという発想は、文化の産まれる順番の認識が違うのだ。時間手順が違うというべきだろう。人間が先だと思っている。 自然という素材があって、そこに人間が来て、意志や想像力でその地域に適合した文化を作り上げていった。その基礎作業が農耕である。と言われてきた。 この意見は、時間手順というものを取り違えているのである。 時間手順というのは、憂慮の対象とそのテンポラルな繰り返しのことである。人間のこころに発現する、未知の暗い図式=構想力のことである。 むしろ、最初に構想力が生まれるのではないのか。そこから時間は始まるように思える。 それは変容を言葉に置き換え、仲介力を得て、バーチャルな領域を開拓し、人間独自のサークル活動の領域を創り上げていく。 農業は重要なものだが、その領域が創る型の一つだ。つまりサークル活動の一つ、文化の形の一つなのである。文化の基礎ではない。 その活動に付随して、似輪が、つまりこころの型が作られる。それは憂慮として反省される形となる。 農耕から、言葉やこころが生まれたりはしないのだ。 言葉やこころは、農耕ではなくてバーチャルガーデニングから生まれる。 これはガーデニングと一見似ているが、バーチャルな領域を耕すのは人間でも想像力でもない。こころの領域を耕すのだが、出来上がっている人間のこころを耕すわけでもない。 それは構想力と呼ばれる原初の力の仕業である。そこから言葉やこころが生まれる。そして顕在化したサークルと、こころに半ばバーチャルな衝撃を留めたままの擬似輪が出来て、初めて、文化である農業が成立するのだ。 バーチャルな衝撃というのは、現在に顕現していることを言わない。 実質のものだが、未だ現在化していない衝撃だけの存在を言う。つまり仮置きされた存在、明確な時間対象となっていない存在、存在者となっていない「単なる存在=存在一般=仮面」としか言い様のないものを言うのである。 我々日本人の文化の基礎は、そこにこそある。農耕という、すでに顕現したサークル活動行為の型にあるのではない。 暑さが残っているので犬サフラン(コルチカム)の息も絶え絶え。今年は花が貧弱だ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年10月01日 20時30分04秒
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