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カテゴリ:哲学研究室
・・・ミ、というのは時間手順に関係した言葉のようだ、というのは先に述べた。時間手順=図式について、特にその変容について、どういう「様態である」、あるいは「顕現する」といったことを示した言葉なのだと。
つまり・・・ミ、という言葉は、バーチャルなものを見据え、それを言葉として顕在化させたものなのであると思える。 ふみ、に関しては、それが引き起こす時間変容について、なんら具体的なイメージとつながらない。先に一筋縄ではいかないと述べたのはそういう意味である。趣味や興味とは、違ったタイプの言葉なのである。むしろ暦と似ていると言えるだろう。 この世の時間地図である「暦」に対し、「黄泉」は、あの世の時間地図である。 「ふみ」の方は、読む側から見ると過去に記された時間地図であると同時に、直面した自分にとっては現在の時間手順の変容を引き起こす物である。また書く側から見れば、現在に記されている時間手順でありながら、将来へ託された時間地図なのだ。 あらゆる文章は、実は現代語で手紙と訳される、この「ふみ」で出来ている。単なる出荷台帳にのメモですら、じつは「フミ」なのである。このフの意味は何だろう。 メモというのは記録と訳される。実際にはメの力によってもたらされるコピーのことを言う。フミの方は、そんな本質的な事柄を述べた言葉ではなくて、もっと普遍的に潜在するバーチャルな言葉であるように思われる。普遍に、不変である、人々の・・・ミ、といった。 つまり・・・ミ、一般を表すような、能舞台の能面役のような言葉なのだと思えてくる。 フミというのは、こころの仮面なのだ。それは記録であるメモとして使われるし、伝達の手段としても使われる。・・・ミである時間手順の変容を表現する言葉を書きとめて伝達するある種の擬似輪、つまり庭なのであるように思える。これは憶測にすぎないが。 ついでに楽しみ、悲しみ、といった・・・ミ、表現についても一言。 ・・・ミというのは、これを見ても、もともと接尾語であることがわかるだろう。時間手順の変容を、あえて言い表すための接尾語なのである。楽しい、悲しい、というのは、普通の・・・における感情であるが、タノシミ、となることで、その感情を時間手順の中で変容化し、直面させているのだ。つまりバーチャルな領域に持ち込むための言葉として、・・・ミという接尾語が使われているということが出来るだろう。 最後に、「海」。 この言葉で真っ先に思い出すのはフランス語である。ラ・メール。 ここにも原初の力であるメが出てくる。当然である。海はあらゆる生命の母であり、力の源なのである。 それと同時に、これも「ウ」「・・・ミ」なのである。この「ウ」を考えると、ドイツ語のUrという言葉を当て嵌めたら相応しいものであるようにも思えてくる。「上」の中にある「ウ」と同じものだとも思える。上位の物、根源の物、母体となるものを言い表すことばである。そして接尾語・・・ミが着いている以上、それはテンポラルに打ち寄せ、繰り返される時間手順の図式変容を反省すべき、原初の言葉なのである。 写真がなくて寂しいので、廊下のギャラリーを再び、サンホンビン先生の絵 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年10月11日 22時01分47秒
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