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カテゴリ:哲学研究室
人間が、魂のない、情報装置の周辺機器と化してしまった日常。テクノロジー文化を自分たちの文化の基礎に据えてしまった西洋の人々は、今、真剣にインターフェイスを模索する時代を迎えている。「それは単なる技術用語ではなく、経済学から形而上学までの幅を持つ幅広い接触点である。」
小生の意見だが、(仲介者、と、端的に言うべきかもしれない。) 著者は、古代におけるインターフェイスである古代ギリシャの「プロソポン」という言葉を教えてくれる。 顔と顔とが向かい合っているという意味の言葉で、畏怖や敬虔な感情無しには口にされなかったという。向かい合った相互の関係は、一度変化が起これば、その影響は永遠に続くのだから。 情報時代のインターフェイスは電脳空間への入り口である。もともとは、電子回路をつなぐ、ありふれたハードウエアのプラグを意味する言葉だったという。それが、システムへの通路となるデスプレイを意味するようになり、「遂には人間と機械のつながりや、人間がそっくり電脳空間に入り込むことまで意味するようになった。」 そのインターフェイスの中で、「つい我を忘れ、自分の居場所を忘れる。」インターフェイスなしには「自分の内的な状態さえ意識するのが難しくなる。」それが機械との関係の中で起きてきている。 著者はこの危険から逃れる方法として、東洋の哲学、特に道教を見直す。 浅い呼吸、息を凝らすという、インターフェイスに接しているときの危険な特徴を捉え、東洋の武術や瞑想にある呼吸法を重視する。 著者は気がついていないような気がするのだが、崇高な物、例えば神の威光を目の当たりにしたとき、我々は同じような呼吸をしていないだろうか? 自然の神秘に打たれ、その摂理に目を奪われたときにも、我々は息を呑むことがないだろうか。よく出来たインターフェイスは、まさに神の業なのだと、感じることはないだろうか。 著者はインターフェイスが、一つしか肉体がない我々に二つの世界を与える危険について危惧しているのだが。これらはしかし、今、情報時代の技術から始まったものだろうか? 東洋の智恵は、何のために、そんな呼吸法を編み出したのか、わかっているのだろうか。 電脳空間へのインターフェイスは、そのうち健康的な呼吸法も包摂したものとなるだろう。心が二つの世界に引き裂かれてしまうのは、まだインターフェイスが完全なものではないからである。そして人間の方も、まだまだ機械のシステムの一部になりきっていないからである。そもそも自然な呼吸法などを考えねばならなかった過去の理由の方を探した方が、防御体制を固めるのに、より好都合だと思うのだが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年11月16日 21時53分49秒
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