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カテゴリ:哲学研究室
秋も深まり、林の木々が膨大な量の葉っぱを落としている。
無駄な宿命の動作にも思えるが、これがまた堆積して保水材や土壌改良材として自己利用されるわけである。おもしろい環境サイクルである。人間と同じように、植物も自分の居住環境を意図的に改変しているのかもしれない。 生命の定義に、環境への改変の働きかけというのが考えられそうである。 そんな林の木々を見ていると、大地に根を降ろした植物たちこそ、太古からの大地の主人であるように感じてしまう。意識や、思想なども育んでいるのでは、と思ってしまう。 動物たち、特に人間なんぞは、そんな植物の世界にたむろする寄生虫のような根無しの存在である。小さな人造太陽を手中にするのが目前で、大地そのものをも揺り動かせるほどの破壊力を得たとしても、未だに原始生命の一つも作れやしない。物質の姿形を変える力は得たのだが、無から有を生む力には、まだまだ、たどり着けそうもない。 私ども人間は、破壊の力や、形の再現や、変形には、ずっと拘ってきた。 物とかかわるというのはどういうことなのか、ということをまともに反省する機会もないままに、その物が普遍的に秘めている力を利用することばかり考えてきたのである。これは、いじきたない寄生生物の宿命だろう。 本当に創造だ、と呼べるようなもの、そんな成果は、この数千年の間に、いくつあっただろう。 人間の全ての創造物は、それが無比の破壊力をもっていたとしても、ただ人間の社会でしか意味を持たないものであった気がする。ただただ、バーチャルな世界においてのみ存在するものの創造だったのではあるまいか。 自然的存在物は、模倣や再現や変形はしても、何一つ創造していないのである。 なにごとかの素材となりうるような、新しい姿形の物は数多く創造されたが、それは自然とは呼ばれない。 西洋の自然は、もともと素材のことを言うのに、人工的存在物は何一つ自然とは呼ばれない。人は、何一つ自然のものを生み出していないからである。これが意味していることはどういうことか。 西洋的思考の「nature」の背後にも、対象化されない、あるいは対象化出来ない何かが、もともと存在していたということなのだ。見出した実質の衝撃中に、あらかじめ多様なものとして含まれている仮想の何かが、つまりバーチャルが、含まれているからなのだ。 このバーチャルなもの,virtu とかvirtue とかも含んだ諸々のバーチャルは、人間が拵えたものではなくて、もともと人間が出会えない世界の何かについて言っているのだ。 面と出会えないから、仮置きしてメタファー化するしかない。それを見ようという努力は買うが、メタファーをビジュアライゼーション化しようなどという努力こそ・・・まさにウーシアに戦いを挑む巨人族を彷彿とさせる。 このバーチャルを耕して、何がしかの形にするバーチャルガーデニングは、バーチャルの中にあるリアリティを、またvirtuやvirtueをこそ耕すものである。 ここで行われるバーチャルとのかかわりは、相手が対象化を拒む物であるがゆえに、常に二義性を持ってしまう。 対象の基礎を耕すことで、対象となりえない何かを耕すのか、あるいは対象となりえる何かを耕すことで、対象となりえない何かを耕そうとするのか。 対象の基礎を耕すことは、想像力の持つ技術を駆使して、未知の分野の科学技術の新しい定義を打ち立てる努力である。不死への形而上学的な努力、神学的努力だと言ってよい。 対象となりえない何かを耕すことは、死すべき有限な人間の特権である。有限な時間を扱う構想力が呼び出され、粋な技術や森の杣道を辿ろうとする、素朴な思惟のささやかな努力なのである。その思惟を私どもは、「こころ」と呼び習わしてきた。 ものの何かとのかかわりが、私たち人間の何かをも変えてしまうのは、そういう理由からであるのだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年11月21日 22時08分34秒
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