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カテゴリ:哲学研究室
この著作との仮想の対話は、実に実り多いものとなった。
著者の明確な思考の教唆で、明るくなってきたものが実に多いのである。特にコンピュ-タ-というものに対して、漠然と考えていた「究極のデ-タ-ベ-ス」という概念が、実はバ-チャルリアリティ技術の到達する未来にある「究極のバ-チャル世界の創出」にある、ということがわかってきた。 著者は不安な二十世紀の人間らしく、実存という錨に頼って、現実を操作するリアリティ技術の危険を判断していこうとする。人間の現実は信頼できるが、機械の創り上げる現実には、やはり全幅の信頼を置けないのだろう。しかし機械の創り上げていく世界、そのマトリックスの悪夢は、映画を見るまでもなく、すでに私たちのものである。古い人間は、すでに私たちが創り上げてきた諸々の仮想物によって包囲され、身動きが取れなくなっている。それだけではなくて私たちのこころそのものも、機械のシステムに適合するように作り変えられてしまっている。 バ-チャルリアリティ技術は、それ自体が形而上学を要求するという形で、現実という名の共同幻想に風穴を開けた。 技術の彼方に安易に芸術を見るような美学的視点で、この形而上学を体系化し、風穴を塞いではいけないように思える。むしろ私達は今、一般人のレベルで、カントが思惟の転回に目覚めた、あの場所に立たされているのだ。 カントは誠実さの視点のありかを見据え、地道にア・プリオりな諸概念の検討から入った。 分析から始めて物事を体系化していくことで、人間の思考の骨格が出来、計測された自然の全貌が浮かび上がってくると信じた。カント先生には、小市民的、敬虔主義的な信仰があったのである。 著者は「現実を支える錨の三つの鉤」という最終節で、自らカントが置かれたと同様の、その立場を振り返っている。著者の場合は実存である。 第一は限り在る「束縛」、第二は記憶や歴史という、時間性、これを著者は一回性と言い換えている。第三は、もろくて不安定な肉体の束縛である。これらのアンカ-については、誠実な視点があると見ているのだ。 私どもが興味を持ち、問いかけ、注意すべき命題のありか、いや「目」のつけどころについて、著者はここで注意を促しているのである。そして最後にこう結ぶ。 「バ-チャルリアリティの最後の到達点は、われわれが錨を上げ、錨による束縛を解くことであろう。新しい地点に錨を下ろすため・・・」 「なぜ無でなく、何かがあるのか?」という、ライプニッツの提起した問いかけに埋め込まれた、最も原始的かつ強さの在るオルタナティブを、遡って経験するような道をみつけるため・・・」 それは「現実」喪失者の宿命であるのだろう。実存の不安だけしかない、居場所のない場所探しである。 しかし二〇世紀最高の思索家ハイデガーは、こう問い掛けたことを、多くの人は記憶しているだろう。 Warum ist uberhaupt Seiendes und nichts vielmehr Nichts? (ウムラウト消えているので補ってください) 「なぜゆえにそもそも「在る」というのか、むしろ「無」では「ない」のか?」 日本語では、ありきたりの普通の用法だが、ドイツ語では、このような無に無を重ねるような表現は珍しいのだろう。ここには、ハイデガ-先生も、しばし注視してしまうバ-チャルな何かがあるのだ。 怠落性という宿命を負うた我々の日常においても、誰もが眼前に薄暗いバ-チャルを、「仮想現実」を観ている。それは庭という心の形を執っている・・・。 これも一種の庭・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年11月28日 21時24分39秒
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