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カテゴリ:哲学研究室
一寸の虫にも五分の魂。この魂というのは「こころ」のことだろう。いやしくも身体を持つ生き物である限り、必ず意識の亀裂は生じ、そこに填まる何かの形が媒介して、こころが生まれる。
シツダルタ太子は自らのこころの確執と欲望と迷妄に悩み、出家してこころを清浄に導こうと努力した。そしてこれらのこころの乱れた姿が、輪廻転生という迷妄に起因すること、さらには死すべき者としての運命に逆らおうとする、いわば根拠のない認識に由来するのだと教えている。 こころはもともと身体的意識と統覚的意識の亀裂であるがゆえに、何もない。空無な存在者なのである。そのこころが迷い、乱れるのは、そこに填まっている形が乱れているからである。 理屈では、そうわかっていても、こころが頼りにするのはそこに填まっている諸々の形である。あたかも味覚がその食品の味を、自分の細胞にはめて見て確認するように、われわれはこころの亀裂に様様な認識の形をはめて見て、その建前を判断する。つまりある、とか、ない、とかも判断するのである。 意識も、あるなしの判断も、それをやっているのはこころという空無な亀裂であり、実際には、そこに巣くっている媒介の方である。それは記号とか数字とか文法であったりするのだろうか? それとも輪廻転生という迷妄の形なのであろうか。 このエピデンドラム・マリエの新芽が出てこない。昨年咲かせすぎ? 売ったセキスイ反騰の構えか。売らなかった連中は続落の構え? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年07月10日 12時48分30秒
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