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カテゴリ:哲学研究室
しかしこれという役割の見出せない庭というのは、そのものとして見えていないということであり、さしあたり「仮置きされた有象無象」ということである。これを伝統的にわれわれは庭と呼び習わしてきた。これは植物育成の役割を担った西洋のガ-デンではない。伝統的な日本庭園では、そこで植物を育成したり鑑賞したりすることは全く顧慮されていない。日本庭園にガーデニングは不要なのである。
西洋の諸庭園においても、もともとガーデニングというのは専属の庭師の仕事だった。設計に口をはさむくらいのことがあったとしても、施主自らが庭園の基本思想を表現したり、全体のバランスに気を使ったりはしなかっただろう。近代の諸君主を除いてである。 それでもフリードリヒ二世が庭弄り、というのは想像できない。西洋においても、現代の我々が言うようなガーデニングというのは念頭になかったのではあるまいか。エピクロスの園においても、キッチンガーデン的な作業は行われていただろうが、ガーデニングが行われていたということを確認できない。 イギリス庭園、それも最近のイギリス風庭園において、この庭園におけるガーデニングという理念が出てきたように感じる。ガーデニングというのは、芸術と同じ、現代に特有な庭の役割なのではあるまいか。 元気な元気な特価品。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年11月15日 12時23分23秒
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