|
カテゴリ:庭園論
滝を立てることについては口伝がある、と改まって言う。中国の書物にも記されていることが多い、と。
「不動明王が誓って言われるには、滝は三尺になれば皆我が身である。」 この理由から、(三尺以上の滝は=不動明王は)必ず三尊の姿にあらわれるのだという。左右の前石はニ童子を表すのだろうか、と、問い掛ける。 不動儀軌(という書物らしい、不勉強で、小生にはわからない)には次のように出ているという。 見我身者。発菩提心。聞我名者。断悪修善。故名不動云々。 これを学ぶのに、必ずしも青黒童子の姿を見奉れというのではない、常に滝を見よということだ、という。「それは不動が種々の身をあらわし給う中に、滝を以て本とするからである。」と締めくくっている。 蛇足であるが、本とは「手本」ということだろうが、本の本来の意味は「コピー」ということである。偽者を大量生産するという現在の意味ではない。型枠という仲介のクラスを形成して、インスタンス創造が可能だという、どちらかというと情報産業で利用する意味の方である。滝を手本に、不動明王のこころが学べるのである。立てる者の責任の重大さは計り知れない。 こんな抹香臭いページに色っぽい書き込みが、と、喜んだが業者さんだった。最近へんな業者の書き込みが多い。金目当てでない個人なら大歓迎なんだが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年01月18日 12時36分10秒
コメント(0) | コメントを書く
[庭園論] カテゴリの最新記事
|
|