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2007年04月12日
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カテゴリ:哲学研究室
 認識の体系が情報とデータに分裂し、なおかつ人間の本性である自由なこころを束縛する先験的なクラス部分が全く人々の眼前から姿を消したのは、どういういきさつからだろう。その疑念は時々鎌首をもたげるが、当の先験的なクラス自体が十分に見えているわけではないので、疑念が去るのも早い。常に具体的な疑問と成り損ねるのである。
 情報のみならずデータもまた、必ず媒体を持つとともに、人のこころのクラスなのである。具体的な事柄や数値を前にしていると、そのことをすぐ忘れてしまうのだ。

 たとえば環境(ミリュウ)という言葉がある。これは具体的な事柄やそのデータであり、数値なのである。つまりある種の先験的なクラスについて述べているのである。にもかかわらず、日常の私どもは、そのことを一切顧慮しない。
 環境は身の回りの有象無象、つまり変容(メタモルフォーゼ)や諸道具と自然とのかかわりや、生命としての人間の生存条件のようなもの、身のまわりの自然だと思っているのである。風土とともにある、海や、山や、大気のことだと思っている。

 これは間違い、いや場違いである。
 環境が相手にするものは定義と数値であり、それがないものは環境ではない。環境の数値を人間の生存条件から大きく外さないためにiso14001という認証が考え出されたが、あれが可能なのは環境が「数値」で表現可能なデータ、つまり先験的なオブジェクト・クラスだからである。環境は素材ではないし、物理的法則でもない。それ自体は姿を隠して見えないが、仮像の姿は見える。それらを先験的に媒介するクラスなのである。

 この場違いを強要する見えない先験的なクラスには、特徴があるように思う。それはクラスであるがゆえに、定義された時間手順は扱うが、経験的変容やコレクション的趣味は扱わないのである。先験的あるいは超越論的ではあるが、そのメは、常に瞬間しか見ないのである。時間ではあるが、時ではないと言うべきだろうか。
 大いなる真昼は時を持たない。早い話が、見たいものしか見ない、その見たいものは、もともと先験的な枠なので、実体はない、ということである。これを覗き込めば当然、ニヒリスムスが忍び寄ってくる。

トサミズキは、ニヒリスムスとは関係が無い。





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最終更新日  2007年04月12日 12時19分14秒
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