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カテゴリ:哲学研究室
情報として提供される有象無象の、「分裂とインターフェイス的な意味での統一把握」、合目的に言うなら、それがバーチャルなのである。現実でありながら、風穴を示しているもの。現実感は保ちながら、同時に現実ではありえない異空間や異時間を指し示しているもの。
この異空間とか異時間の正体は何だろう。 電脳空間とかサイバー世界という言い方をするが、この異様な情報の根本には何があるのか。 現実と、それを見るモノサシとなる、私どものこころという、バーチャルなクラスが、ここにはあるのだ。これまで、人のこころをバーチャルなクラスであると言い切った表現に出会ったことはない。しかし過去の文学も芸術も哲学も、そして歴史も、ことごとく、この事実を検証しているように感じる。 特に日本庭園という独特の文化と出会い、これがまさにオブジェクト・クラスではなく、バーチャルなクラスであることを自己主張している事実を確信するに到った。 能や茶の湯と同じ、仮面を立てて、その背後にある現実の衝撃をこそ見せようとする独特の、こころの形でできた文化である。 この文化は失われかけている。 文化の意味が基礎から変わり、芸能の世界にもオブジェクト・クラスを導入しようとする思想が忍び込み、人の心の支配に取りかかっているからである。そのうち人のこころも、バーチャルなクラスではなくなってしまうのかも知れない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年06月04日 12時15分34秒
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