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カテゴリ:哲学研究室
自己を無にしての瞑想に、夢の「能」に似た働きが浮かぶとしても、空想や想像はどうなのか。それはどのような「能」の現実なのか。
イメージあるいはビジョンという名の窓が、そこで取りざたされる。日常においても存在している同じ窓なのだが、日常の現実においては次々と間隙なく与えられる違和感の波に翻弄されて、言葉や記号に代置した鮮明なイメージ以外の道具では、その窓を維持することは困難である。そして「代置」によって、それは「能」ではなくオブジェクト・クラスにすり代わってしまう。「代置」のみならず「仮置き」もまた、物化したクラスの働きなのである。 空想や想像は、夢と同じ能をあつかうのではないかと思う。しかしそこに瞑想時のような無念夢想ではなく、明確な意思の言葉が関与するようにも思う。つまりオブジェクト・クラスが顔を覗かせるのである。ミュウズのささやきですら、言葉としてやってくる。 能がクラスに変じた時、そこには最早、時の流れは存在しない。 今という瞬間か、過去という暦でしかないのである。未来は無い。 メー・オンが、「空無」としか言いあらわせないのは、そういうことである。 オブジェクト・クラスは、時としての未到来の原野を一切持たない存在である。独自の時間を持ち、独自の時間性まで備えているが、それらはすべて瞬間か過去の定義に負う者である。定義が時間の厳密さを規定し、想定外の出来事がクラス構造体の存在理由をあっさりと破壊する。 私ども人間が、未来を予測できないのは、この想定外の出来事の波が、常に自己というクラス構造体を破壊しつづけているからである。天気予報が難しいのも、同じ理由である。せっかく予想した天気図の配置が、想定外の事態で、あっさり崩れる。 しかし究極のデーターベースが完備すれば、この未来は予測可能になるのではないのか。 そう考えたのがライプニッツであり、彼の業績を受け継いだサイバネチクス論者たちなのであろう。 米国の思想家などは、このビジョンが人間の未来を取り仕切ることを予測し、環境工学や人間工学において、芸術が参与することへの期待をあからさまにしていた。しかし芸術は、今日では売れる技術でしかない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年10月24日 12時21分58秒
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