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2008年05月22日
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カテゴリ:哲学研究室
 では、道具について言えばどうか。こちらのほうがもっと馴染みがあり、わかりやすいと思う。
 和の道具は、こころの形を持っている。
 こう言っても、常識として伝わる何かが、まだ残っているだろう。西洋の道具は常にインターフェイスを意識し、その効率と使いやすさを追求して作られたものである。
 和の道具は違う。
 伝統的な和の職人は、道具がこころと一体になって馴染まなければ、決してその道具を使おうとはしない。和の道具はこころ(のクラス=能)であり、素材と自分を仲介するインターフェイスではないのである。

 西洋でも大昔から、道具と人間の、こののっぴきならない関係には気がついていた。これをもう一度主題に載せたのが、ピューリタニズムから生まれたプラグマチズムであろう。
 道具を介して物とつきあう、そのことにおいて、実は道具を使う人間の方も、道具を介して物に関係付けられる。
 どういうことかというと、人間のこころが、使う道具によって逆に形づくられている、ということである。崇高な神を規定し、神の規範を規定することにおいて、人間(というこころ)は、逆にそのようなものとして規定される。この関係は、トンカチやノコギリといった、ささやかな道具との関係でも同様なのである。
 このことに気がついたプラグマチストたちは、やがて究極のデーターベースやサイバネチクスといった分野に、未来の曙光を見出すことになる。米国流の文明主導のバラ色の未来をである。

 道具と自動機械の関係は、しかし闇のままである。クラス化された時間との関係がそこに介在してあるということは理解されているようだが、それを取り上げるのはハイデガー学徒だけである。 
 しかも和の道具と、西洋の道具では、その時間手順もどうやら逆なのである。つまり時間、ということの意味が違うのである。将来の形として差し招く道具と人との関係なのか、過去の規範の反復として繰り返される、目的物と型枠の関係なのか、ということである。前者、つまり伝統の日本文化ではこころが主題であり、後者では、こころは隠れて見えていない。
 しかしどちらが文明的かというと、後者の方がはるかに明るく、優れて効率的であることは言うまでもない。こころを持ち出していたら、儲からないのである。

 
伝統の兵庫絹さやや、ウスイエンドウは、スナップえんどうほど旨くないことがわかった。





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最終更新日  2008年05月22日 12時15分17秒
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