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カテゴリ:哲学研究室
この両者の関係を明らかにしておかないと、立て組み化された庭での出来事は薄暗いままであろう。しかし先に述べたバーチャルなビジョンが、うっすらと両者の関係を構築したはずである。これを思い出してみたい。
先にも述べたように、ビジョン(想像力)はモノを作り出しはしない。それは輝く神々の力が憂うことごとをコピーして集めるだけである。e-dinという美人局を宣伝するだけである。 モノを造り出すのは構想力であり、個々人の人間が持つ、小さな時間である。 こういっても、もちろん物理的な物質が無から作り出されるということを言っているのではない。物理の世界ではエネルギー不滅の法則というのがあって、いかなるモノも形を変えるだけで、増えも減りも、なくなりもしない。 ここで言っているモノというのは、対象化され認識把握されたモノ、つまりオブジェクト・クラスのことである。 このクラスを把握するのはこころのクラスで、それが可能なのは両者ともおなじモノ、つまり時間のクラスだからである。 構想力が、こころとモノの図式としてクラス化する。つまり方枠を作る。そのことにより、モノのクラスとこころのクラスが、同時に、作られる。 認識の力である時間のクラスが、つまり方枠が、そこで構想する力として働いている(と、バーチャルに考えることができる。) しかしこの力はどこから来るのか。 それをカントは天才だと述べたのである。この力は天から来ると。この領域は形而上学的な領域に踏み込むことで、つまりプラトニズムなのであるが。 実際に、構想力を発動する力は何だろう。 これは生命の本質とは何か、それを発動する力は何かと問うことでもある。 欧米の人々はなぜか安易にここでビジョンを、想像力を導入する。 先の問は、実はプラトニズムにありがちな形而上学的問である。生命の本質を司る力とは何か、といった、大それた問なのである。この問を問う前に、そんな資格がわたしどもにあるのかどうかを確かめるべきである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年02月20日 12時36分16秒
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