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2009年03月27日
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カテゴリ:哲学研究室
 古今の哲学者の数だけ哲学がある。
 これはこころのクローンが作られない限り、永遠不滅の真理だと思う。実はそんな「永遠不滅の真理」など、ないのであるが。
 論理のクラスはあっても、論理そのもは、ない。哲学の実践はあっても、哲学理論などは不滅の真理ではない、という意味である。

 せっかく西田哲学の高弟たちに囲まれていて、西田哲学の何であるか、ただの一言も学ばなかった。それでよいのだと、今は思っている。
 論理のイロハもロクに学ばず、ヘーゲルについての知識も皆無に近い。しかしそれのおかげで、弁証法を哲学の中心に据えたヘーゲルが、なぜ精神の現象学に取り組んだのか、うっすらとであるが理解できるように思うのである。

 論理は、一種の自動機械である。つまり、こころのからくりである。
 しかし人の認識は、そのからくりの造り出した形の増殖ではない。もっとやぶにらみで、バーチャルで、わけのわからん代物である。つまり時間的な憂慮なのである。
 こころは、この憂慮が認識され、クラス化して造り出したモノの立つ庭である。
 したがってかならず現象として追って、弁証できるはずである、と。

 哲学の方法は、論理に負うのではない。自己の乖離に気がつくことと、それを弁証すること。つまり対話のなかで理解することに負うのである。
 論理は道標を示してくれる。しかしそれだけを見ていても、正しい路を示してはくれないのである。
 むしろ自分がそこに立っている、こころの庭に気がついて、それを見出し、跡付けること。カントは演繹だと述べているが、この庭を立てることは必ずしも命題を立てることではない。論理で言う演繹法とは、ちょっと違うのである。
 どこが違うのか。

 今は時間手順が違う、としか言いようがない。自信が無いのである。これを方法として述べ立てようとすると、当の照明が見えなくなる。
 だからプラトンも、自分の教説を述べるのではなく、対話という形式で、ソクラテスに述べさせたのである。もしかしたらプラトンも、プラトニズムの信奉者ではなかったのかも知れない。






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最終更新日  2009年03月27日 12時16分19秒
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