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カテゴリ:哲学研究室
人間が作り上げた諸々のバーチャルな事柄を論議のテーブルに載せたいがために、カルチャーという言葉は生まれたのであると思う。価値を論議したいわけではないし、技術的な成果を蓄積するのが本来の目的でもない。
しかし価値を問題にしないことには、先に進めない。耕作の形に見えているバーチャルな事柄を論議しようと思っても、手がかりがなかったのだと思う。 印欧語では主体と客体は最初から明確に立てないと、論議そのものが立たない。そして主体と客体の関係を司る仲介者がいなければ、バーチャルな事柄自体が論議とならない。 かくしてカルチャーというバーチャルな概念が導入されて立ち、同時に人間も耕作地である自然も立った。更に価値という仲介者も立つことになってしまった。 この仲介者=価値=カネが表に出ることで、バーチャルさ、という本来の語るべき事柄が、今度は見えなくなってくるのである。 カルチャーが本来語っているのは耕作の(バーチャルな)クラスと言うことである。 しかしこのバーチャルなクラス、という部分が、容易に「価値のクラス」に化けてしまうのである。カルチャーが、価値を伴う、というのはそういう意味である。もともと価値があって、隠れているバーチャルな事柄が生じるわけではない。しかし、そのように見えてしまうということである。価値は見えるが、バーチャルさは消える。 価値命題をもともと含む、とみなされるに至ったカルチャーは、やがて更なる価値を追求する技術の基礎要素とみなされるようになる。カルチャーは価値で立ち、価値はカルチャーで立つ、相互関係者だとみなされるわけである。 あたかも道具を作るように、人はカルチャーを形成して糧を得る。その糧の量や質が、カルチャーに技術的価値評価を与える、というわけである。 人間の社会的活動の基礎には、かくしてカルチャーが居座り、常に自然風土と対峙した形で人間のカルチャーが語られる。やがてそれは優れて普遍的に価値のあるカルチャーというイデアを産むこととなる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年05月29日 12時28分48秒
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