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それを収めるために、遠い過去に共有した伝統であり、卑弥呼の君臨によって呼び覚まされた辰王の権威が、再び呼び立てられた。
卑弥呼の宗女、壱代は、文字通り伊予国の地から呼び立てられたのではあるまいかと想像する。 漢の金印が出た鹿の島も、古い祭神の宇佐八幡も、すぐ近くの海路にある。 大乱を収める目的で呼び立てられ、辰王に擁立された卑弥呼の宗女壱代は、争いの根を絶つためか人質かはわからないが、政略結婚で嫁がされていたようである。卑弥呼に子供が居た様子はないので、卑弥呼の娘ではなく養女で、むしろ辰王の側室の娘であっただろう。 気位の高い公主であった卑弥呼は、敗北逃亡者である辰王卓を夫として認めなかったのかも知れない。 壱代も、なぜか嫁ぎ先の夫を失って後、辰王の地位を利用し、半島に大遠征する。義母と逆の道筋を辿るわけである。この遠征は、別名で、わが国の神話にもある。 しかしここがちょっと怪しくて、半島遠征の理由が掴めない。そこまで列島が平定されていたはずは、ないからである。普通は、まず足元を固めるのが筋というものだろう。 実際には彼女が、かっての主敵であった高句麗系種族の夫(神話では天皇だが、この時代に未だ天皇は存在しない)を殺し、一族郎党を伴って半島の拠点に逃げたのではないだろうか。海を渡ったのも大軍ではなくて、逃げる一門だけであった可能性が高い。 そこには過去に辰王が招きいれた亡命の民、秦人たちと、一門の民、そして祖先の立てた秦城が待っていた。契丹文書は、これをハタキと読む。壱代はたぶん、秦人の血を引いていたのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年09月03日 12時05分13秒
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