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倭国王は、斉、公、賛、珍、武、という五王の名前が中国の文書に残っている。但し首都の位置も、所在も不明確なのである。これも本拠は大和ではないと思う。列島ですら、なかっただろうという説を採りたい。
南韓の秦城(ハタキ)に拠った国であれば、当然のことである。 この小国の首長は不可解にも、高句麗や百済、新羅を含む六国諸軍事を統括する大将軍だと名乗っていた。首長はまた、辰王を名乗っていた。 倭国はしかし実際には小さな国家連合にすぎず、中国の帝国は、もちろんそんな大それた将軍職を認めてくれていない。 当時の中華帝国の王族に秦人は最早おらず、辰の伝統とは関係ないので、諸国擁立の辰王だとは、認めていないのである。 その倭国が、唐、新羅の連合軍相手に、同盟国の百済救援を名目に無謀な戦をする。 総大将は倭国に居た百済の王子である。人質になっていたという説が教科書にあるが、逆だろう。倭国の影の支配者、お目付け役として、百済から派遣されていたのだと思う。 降伏勧告もあったのだろうが、後ろ盾であった百済と倭国は、当時すでに一身同体である。裏切って生き延びるわけにはいかなかったのだろう。 その最後の戦いを決したのが白村江の海戦なのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年09月08日 12時22分32秒
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