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カテゴリ:哲学研究室
この問いかたは、合目的対象を定義して始め、帰納的結論に至る科学技術的な問いと、まるで逆の問いである。
それは論理的にも逆に見えている。演繹に似て見えている。帰納法ではないのである。 経験の中に、あらかじめ先験的に含まれている亀裂を見出し、その違和感の導きによって跡付けていけばよい。 この投機された庭、つまり常識の立つ領域は、そもそも正しいと言えるのだろうか? そういった問は、必要ないのである。それは科学技術の場合と同様である。命題の真か偽かは、問う必要がないのが科学技術なのである。同様に、常識の真か偽かは問う必要がない。むしろ、もともと仮想の「もの」だと、一期一会に過ぎないのだと、常識は告げている。それはあらかじめ明白である。 常識が立てる生命についての認識は、生きてあることへの認識であり、仮想の「もの」にすぎない。もののもの自体を問うて立てているのではなくて、仮想的にものとして立てているに過ぎない。具体的には、立てて、呼び込んでいる。 立てた命題や庭は、論理的に真とか偽とかは関係ないのである。 ***こいつらは絶滅 *** お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年12月24日 12時13分36秒
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