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カテゴリ:哲学研究室
耄碌して、哲学のアルケー(導き手)を尋ね辿ることが容易になってきた。
これは短期記憶の欠落と明白な関係がある。直前の記憶がすぐにうすらいでしまうので、自分が構想した諸々に囚われなくなったためであると思う。 このアルケーをイデアに見立て、更に対象化して恒久普遍のモノとして定義し、それを未来に向けた機械体系として実現させるのが科学技術である。 この定義にはクラス化(方枠化)が必須である。 いわばモノ化の定義であるクラスによって、(人間であった)時間は立て組まれる。定義済みの時間構造体となるということである。 物理学を始めとする諸々の諸科学においては、この時間をアルケーから見ようとはしないので、そこで(クラス化に)使われている思惟や論理が、必ず唯物史観でしかないことにも気がついていない。 そしてこの唯物史観たるや、モノの価値に囚われたシャイロックの物語と化してしまっているのである。誤解されているということである。世にいうマルキシズムはマルクスの哲学とは無縁である。 そして時間は、カントの言うとおり、構想力であると思う。 人間に齎された構想の、いわば思惟する力である。コギト エルゴ スムという事態に働く力である。 この力はまた、人間が産出したモノではなくて、天才である。天が与えた他力なのである。世間は構想力は闇だとして省みないが、これもカントの言うとおりだと思う。 時間は、クラス定義構造体ではない、ということである。単に天から降ってくるものであって、プランク時間として定義された物理時間ではない、ということである。 アルケーを尋ねる哲学的思惟が、必ず唯物史観であることは、時間が構想力であることに由来する。私どもが過去しか見ることは出来ないこともである。 私どもは日常の生活に、やはり日常のクラスとして定義されたクラスの時間を使う。この日常の時間認識には、唯物史観は出てこずに、未来の空想や薄っぺらいアイデアや過去の記憶や、一期一会の喪失感などが、ごった煮で出てくるのである。 こういった、言わば耄碌の成果に、少しでも踏みこんでいただける人が居るだろうか、最近自問している。 思惟されたことに囚われて、哲学的思惟を論理だと、教説だとして読んだのでは、結末が見えている。哲学者でさえ、哲学はアイデアに至る論理だと思っている人がほとんどなのである。バーチャルな庭をガーデニングして、単に跡付ける事だとは思っていない。 あなたはパラノイア的思考に出会っているとしか感じないだろう、ということである。 それはあなたの思考が、思惟したそのことに、そのつど囚われてしまうからである。 エポケーやアウフヘーベン、エクジステンツやゲラッセンハイトといった、特殊な哲学的呪文が必要なのである。小生は自分用にバーチャルという言葉を使う。 小生はアリストテレス信奉者なので、はっきりいってプラトンは嫌いである。しかしソクラテスの学校も、やはり必要なのかも知れないと、最近思い始めた。 それがなければ、耄碌の成果をいくら書き溜めても誰も理解できない。それでは無意味である。 そのうち耄碌の程度も進んで、自分でも理解できなくなるのも、今から目に見えている。 ** 月に代わって、おしおきよ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年09月20日 17時06分20秒
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