|
カテゴリ:哲学研究室
あらゆる芸術は、価値に囚われた技術に過ぎない。
優れた稀有の技術なのだが、価値の伴わないモノは芸術とは呼ばれない。 だから、芸術は哲学とは無縁である。 西洋のカルチャーも、価値に囚われた文化に過ぎない。 ドミナントで一般的な価値のあるカルチャーが世界中の人々のこころを方に嵌めて席巻する。この価値の無い一期一会のカルチャーは、カルチャーとは呼ばれない。 だから、カルチャーも哲学とは無縁である。 哲学は、立て組まれたクラスの解明を求めるのだが、モノにも庭にも囚われていては無知の智へと至ることなど、不可能である。だから、エポケーやアウフヘーベンやエクジステンツなどの諸々の呪文が、必要だったのである。 西洋の人々は存在者の存在に囚われながら、いわば来るべき至高の価値に囚われながら、未だ到来していない、その価値を追い求めてきた。 目の前にイデアの影をぶら下げてである。 しかし、その思惟の方向は最早哲学ではなく、言わば伝承されるモノ一般とはなりえないのではと、ハイデガー先生などは考えていたようである。 小生の直接の恩師である三村先生なども、論述の体系としてその思惟の至った深みを表現することに、最早、こだわっていなかった。 小生は、相変わらず、こだわっている。 芸術とも、カルチャーとも無縁な哲学が、論述可能だと、耄碌した最近思うようになってきた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年12月16日 18時55分57秒
コメント(0) | コメントを書く
[哲学研究室] カテゴリの最新記事
|
|