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カテゴリ:哲学研究室
不況続きで同窓会の費用も安くなった。確かに料理は値段相応だったが、無職無収入の身分にはありがたい。おまけに特等席のような見晴らしのいい部屋だった。
古い時代のスタートレックに出てくるような、いかついミスター・スポック顔の幹事様、ありがとうございました。 それにしても、誰も酒を飲まなくなった。 もともと教育専攻の方々と併設のクラスだったせいかも知れないが、哲学の話をする人も居なくなった。哲学科に学んだことが人生にプラスになったという方は居たが、学んだおかげで大もうけしたという人は誰も居ない。哲学は、カネにはならないのである。 産学協同の体制が進めば、事態はもっと酷くなる。 哲学は、放蕩貴族の余暇や宗教教団の秘儀から生まれてきたものではなくて、アイデンチチイを立て、逆さに向いてボートをこぐ西洋人の思惟の舵取りの必要があって、社会生活の雑踏の中で生まれてきたものである。徹頭徹尾、個人のモノではない、ということである。しかしそのことを、今日の誰も認識していない。 研究対象を定義立てて始まる科学技術には、命題を立てるその領域を捌く基礎知識と伝統文化との仲介者が必ず要る。科学哲学という、わけのわからない意味で、ではない。単に哲学、でいい。それもリュケイオンで教えていたような底辺の哲学である。(小生はアリストテレス信奉者なので) 伝統との対話なんぞは知りません、命題は無批判で自動機械が勝手に立ててくれます、産業が必要としない基礎知識など不要です、となれば、先端技術ばかり目論んで底辺の知識を見ないアカデメイアには、カネの亡者しか寄り付かなくなる。いや、すでになっているのかも知れない。 リュケイオンの理念も、タ・フィシカ(自然学)の伝統も、失われてしまうのである。 同窓仲間も、哲学科に学んで損をしたという人は居なかったが、苦労した人は多いようだ。 いくら底辺知識の哲学がつぶしが利くといっても、収入のあてもなくなれば、こんなモノと真剣に取り組むアホは居なくなる。 小生も最近、後悔しているのである。 哲学を学んだことを、ではない。今ほどアホでない若い頃に、なぜもっと真剣に学ばなかった(真似しなかった)のか、ということをである。 若い頃に学んだ事柄は良く覚えているが、年を取ってからは本を読んでも、まるっきり真似できない。すぐにカネが、カネが、と、おつむのどこかが言い出して、今ではカネになる真似事しか出来ないからである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年01月09日 22時45分31秒
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