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2011年01月14日
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カテゴリ:哲学研究室
 季語がなくても川柳は可能だし、5,7,5,7、7という日本語の文節リズムを踏まえた形式は、和歌あるいは短歌と呼ばれる。3+4、4+3、3+4、5で、唄うのに向いたドドイツというのもある。日本語自体が複雑怪奇で難しいので、詩を成す形式の方は比較的簡単なのである。漢詩のように複雑で高度な約束事は要らない。
 ソネットと呼ばれる西洋の14行詩なども、かなりややこしい約束事、つまり形式があるようだ。道造の詩は脚韻のないものもあるが、必ず意味上やイメージ上の韻を踏んでいる。ソネットで特に脚韻を踏むことは至上命題のようでもある。それがなければ、この形式にした意味がなくなるのである。

 詩は確かに形式を持つかもしれない。しかし詞には形式など要らない。
 ほとんどの人がそう、考えていると思う。
 詩には定型詩と不定形詩、さらに韻文だけではなく散文もあり、特に詞の多くは不定形であると。
 この常識には異議を唱えたい。散文詩も、散文という形式の詩だからである。あえて散文という形式を選んだ理由がある。散文詩やアフォリズムという定型形式があるのだ。

 また、現代詩を強調するグループの主張は、詩とは批評精神なりという主張を掲げていた。それも日記的な、あてどない内省の批評は無意味で、他者へと向いたこころの訴えが必要なのだと。
 この考え方だと、近代的自我に目覚め、社会の不条理に向いた喜怒哀楽の感情主張ではなく、それをこころの形にして主張する冷めた批評精神が詩の本質だと、言うことになる。叙情は、優れた批評精神が齎すのだと。

 小生の詩作という試みを圧殺した、駄目押し思想の一つが、大学の先輩に教わったそれだった。この誤った思想を追放するのは簡単ではなかった。さらに、詩や詞に形式がなければそれは散文(という形式の)詞ですら無い。今はそう思うのである。まず、これを説明してみたい。






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最終更新日  2011年01月14日 16時19分51秒
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