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カテゴリ:哲学研究室
別名で言うと、時間の立て組みである。
現代物理学は時間を延長概念の一つとして無理に空間化し、プランク時間という最小の時間単位を決めて数式化した。その目的は、物理力を嵌めておく機械的方枠を立てることにある。 同じような努力が、文芸でもなされているのである。天から天下ったミュウズと出合った者のみが、韻文という形で、その姿を形式だてることができる。 その形式に切り込むまえに、これらの時間の立て組みが立っている「場所」について、語らねばならない。 対象と居「場所」を混同してはならない。 量子力学や最新の宇宙論は、それを混同してしまっているのである。 研究対象はかならず認識の枠に支えられてあるモノ(カント)なのに、それを忘れて認識の枠に過ぎない数学の方程式に宇宙論の居「場所」を委ねてしまっている。場合によっては新しい居場所を求めて数学を拡張している。バーチャル・ガーデニングをやっている。 詩論が詩を対象化して語れないのはもちろんであるが、居場所は(過去に)見つけねばならない。それが寺で言い放たれる失われた庭だとしても、である。 失われた時を求めて、西洋人は未来の庭を尋ね歩く。 詩を前にしてもそうである。彼らにはアイデンチチイというモノが立つので、天才を 得た詩はすぐに、批評精神のごときアイデンチチイで対象化され、得られた次の瞬間には見失われてしまう。失われた時を求めてさまようのは、彼らアーベントラントの人々の薄暗い宿命なのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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