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カテゴリ:哲学研究室
かそけき抒情のありか、つまり居場所としての庭。
小生の拙い詩業は思春期だけの短いものだったが、ムーサ達の居場所は見えていた。それは(こころの)庭だった。庭は、いつでも小生の詩の居場所だった。そこに抒情が、かそけき世界があった。 小生のその世界を、かそけき抒情の世界だとして明確に見つけ出し、ひどく憧れるとまで言って下さったのは寺山修二先生だが、先生にはたぶん(こころの)庭が見えていたのである。 いや、世間で詩人と呼ばれるような人々は誰でも、この庭が見えている(はずである)。 先生との出会いは、「白夜夢」と題したその下手な詩の投稿が契機だった。今の小生には白夜夢は、すでに全く見えない。 今は、何を見るにも呪文や暗喩を並べ立て、屁理屈をこね回さないと何も見えない。 見えないからバーチャルにガーデニングするしかない。 (神々の)力を組み込んで立て組まれた庭の有様は、伝統的な西洋哲学の主題でもある。ムーサ達が、そこに居るからである。 しかしこの庭がe-din という空想物語として希求されはしても、学芸としてリュケイオンの園で学ばれることは絶えて久しかったと思う。 アカデメイアのイデア論が、これらの(仮想の)現実のことごとくを、未来の空想物語に摩り替えて消してしまったのである。容易に見えない世界にしてしまった。 詩は、その庭で、天才であるミューズを反復する(受け取りなおす)方枠を製造する学芸である。容易に学べる(真似できる)技芸だったはずである。 言わば、形式や抒情が目的であって、価値観や判断の内容、個人の趣味など、どうでもいいのである。哲学同様、永遠の真実や、真理と呼ばれる正論や、批評精神とは、例えそれを利用していても本来無縁だ、ということである。 堅固で力を持った世界ではなく、かそけき、カササギ色の闇夜の世界なのである。 壮大な力や意志を描くイーリアスやオデッセイアといった叙事詩の世界においても、詩である部分は同様だと思う。 そこに鋭い批評精神を見ることは不可能である。批評精神を読み取ろうとすると叙事詩の抒情が消え去り、自分のくだらない歴史観や人生観、英雄観が見えてしまう。 作者の人生観ではなくて、時代を立ち止まって価値評価する、読者の下劣な人生観である。 詩ごころ(庭)を見失った者が優れた叙事詩を読むと、実際にそのように読める。だからナルシズム傾向の人は叙事詩が好きになる。小生も年をとってから、抒情詩より叙事詩の方が馴染むのだが、理由はそれだと思う。 抒情形式であるはずの庭は、価値評価の硬直形式にしか見えなくなるのである。自分の硬直した庭を見るからである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年02月08日 22時19分49秒
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