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空虚な「イメージ」という用語の問題が絡んで、これを追放するのに手間取ってしまったが、叙情の反復という問題に立ち戻ろう。
反復は、かならず小異をもって反復される。 一期一会の確認だ、ということである。無自覚に次々とインスタンスされる感情の流浪のことのみを言うのではないのである。感情の流浪が叙情ということだが、[反復は、かならず小異をもって反復される。] もし小異がなければ、反復は反復であることすら、わからない。 反復という概念を、小生はキルケゴール(デーンマークの宗教家セーヤン・キアケゴード、通りのいいセーレン・キルケゴールを使う)から学んだ。 反復は繰り返すことなのだが、その繰り返しは「一期一会の確認」があって、初めて繰り返しだと、繰り返して認識可能だ、ということである。 キルケゴール先生はアイデンチチイのある方なので、かならず「受け取り直し」だと、主体的に言う。 実際には主体を立てた例外的単独者の孤立を述べたいわけではなくて、神のスパイという身分の方を主張したいのである。但し世間は逆に受け取ってしまったようだが。 繰り返しは「一期一会の確認」という受け取り直しである。 次々と方枠から流れ出てくる叙情は、すこしずつ小異な部分をもっていて、受け取り直すことで、これによって叙情だとわかる、ということである。 似たようなモノは、中世のドウンススコトウスという先生が、バーチャリターとして述べている。 経験を経験として(反復)認識するには、経験に先立って仮想の(バーチャルな)経験認識がなければ、それと出会ったとき経験だとわからないだろう、という論議である。 いずれも認識する対象を先に立ててから論議する欧米風日常的時間概念の論議ではなく、人の認識の場から、その常識的時間概念を受け取り直す論議である。 ハイデガーが、現象学の世界から基礎的存在論を目論んで立てたような論議なのである。 いずれも反復という問題が持つ実質の内容であり、「小異情景」の問題なのである。 詩論の核心に迫る根本テーマだ、ということである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年02月20日 20時28分10秒
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