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カテゴリ:哲学研究室
西洋哲学が未だ社会に導入されていなかった江戸時代のころ、わが国では歌も趣味も、そして仁義道徳も、美などとは無縁なモノだった。憂慮の範疇には無かった。
ミュトス的なモノではあったかもしれない。そして、わび、さび、いき、更には艶なるものではあったかもしれないが、陳列されて共通体験させられる「美」ではなかった。 うつくしきモノ、美しき人、映奇しき注意を引くナニカではあっても、主観主導で語られる個人的なモノに、社会全体が引きずられる必要は無かったのである。 江戸期において、エンターテイメントの方は極めて盛んだった。 人々は勝手に判官びいきをし、歌舞伎役者や能楽師、さらには黄表紙の作者までが、時の人としてもてはやされた。 真、善、忠、孝、美、仁、義、徳、などのエンターテイメント的な、しかし空虚な概念がもてはやされたのも、このころからである。歌が流行し、趣味が栄えた。 時間つぶしのリングを受け入れる素地は、十二分に出来上がっていたと考えていい。 当時の江戸は世界最大の人口を擁し、そして治安も社会組織も識字率も庶民文化も、文字通り世界最高の都市だったのである。 そして文明開化。要するに西洋の科学技術と、立て組み化された思想(イデー)に出会ったのである。資本という概念や民主主義という理念、法的秩序も同じ仲間である。 その社会では、最高の目的が課題として常に問われて崇拝されていた。まぶしいほどの課題だった。 日本の美を作り上げたのは、岡倉天心を中心に集まった、絵の巨匠たちのグループだったと思う。 エンターテイメントとしての伝統の日本画も、浮世絵も、すでに技法は完成の域にあり、西洋の絵と比べても、なんら遜色はなかった。 欠けていたのは西洋風の「美という概念」のみだった。美をネタに、人々のこころを操作できるナニカが欠けていたのだ。彼ら絵師は、憂国の義士だったのである。 哲学者ではない人々がアイデンチチイもないままに、この空虚な概念を作り上げたのである。それを補完していった偉い芸術家たちは数多い。彼らは世間に認められ、その美学で、世間を、いわば教化していった。日本は審美時代に入ったのである。 一門の九鬼周造は西洋哲学史の全貌を教えていただいた先生なので敬愛するが、西洋列強と居並ぶために岡倉天心がこころをくだき広めた「美というイデー」は戴けない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年04月12日 08時33分40秒
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