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カテゴリ:哲学研究室
哲学がその本来の任務を失い、究極の倫理や究極の論理を探してさまようようになってから、学問(エピステーメ)の世界がおかしくなってしまった。
究極の倫理や究極の論理というのは、形而上学のことで、これは今やカントの時代の心理学、宇宙論、神学、社会学だけではなくなっている。むしろあらゆる学問が形而上学に成り下がっている。その証拠に、彼らは・・・の哲学を主張している。法哲学、科学哲学、歴史哲学に道徳の哲学、究極の機械哲学(サイバネチクス)までが存在する。 そして伝統の純粋な哲学(フィシカ)が人々の間から完璧に見失われ、哲学がミュトスを扱う倫理的なエンターテイメントだと思われたり、理論をコンセプトとして与えて、物事や社会や学問を仲介する便利屋かフィクサーのように考えられている始末である。 特に米国のプラグマチストたちは、人心を操ることにこころをくだく。完璧にフィクサー志向なのである。弁論術を使って仲介者となる。 それは過去にソフィストたちがやっていたことで、なんら目新しい社会現象ではない。 プラトンが、それに異議を唱えて、哲学者の任務が決まったはずである。 倫理学というのは個人ごとであって、もしフィシカ(自然学)でないのなら哲学とは無縁である。 美学(感性の学、エステチカ)というのも同様で、価値観を抜きにした自然学でないのなら、やはり哲学とは無縁である。実は論理学や数学なども、同様である。 哲学がロゴスの陣営に属しているというのは通説だったが、これも本当は正しくないと思う。 本当は中庸であって、倫理にも論理にも、ロゴスにもミュトスにも、どちらの陣営にも属しているし、また属していないのである。 倫理・道徳とは結局、ナニカ。 哲学とは完璧に無縁とはいえないが、疎遠なかつ危険な、哲学を追放するための「社会の硬直化現象」のことであると言える。 現存への最高の問い、ニヒリスムスであり、反哲学である形而上学がそれを支え、サニワの科学技術を見出そうとする、自らがやっていることへの、無知なままで危険な権力志向の努力のことなのである。 * まずい場所に生えたレンテンローズ。株分けできない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年05月02日 20時00分58秒
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