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文化の意味が、基礎から違うのである。
私どもが基層に持つ文化は、価値ある農耕技術ではないということである。文明(シビライゼーション)にいたる、発達と向上の意味は一切持たない。価値観も無縁である。 武力を持つ支配者も支配することが目的ではなく、主人筋も主人として振舞うことが目的ではないのである。 文化とは、伝統を担う、ということである。世界遺産を認定して担う、ではない。 価値ある遺産を見出してそれを保護しようといった思想とは無縁である。 当然、歴史というものの意味も違ってくる。 あるドミナントな種族の血筋が支配する領域や、シビライゼーション(文明化)を担う進歩発達の経過とは無縁なのである。 クシュを追うということは、同時に辰王の系譜を追うということでもある。 しかし、彼らの遍歴した既成常識の国々や数多い帝国の支配領域や民族の血筋とは、必ずしも重ならない、ということである。 むしろ語呂合わせの歴史や、いかがわしい伝承に問うことが多くなる。 だから既存の常識やテーマを手放せないでいる人には、無縁な裏歴史となってくるのである。 イシンの神々を担い、基層の膠着語を護り続けた諸種族には、全く違う形式の文化がある。 この文化において、神々は庭の中枢に須弥山という宇宙コロニーとして立てられて、祭られる。ここでは、庭を立てること=文化を立てること、そしてこれはこころを立てること、なのである。 そして国家は、民族や血筋の多数派による帰納法的権力機構とは違い、この須弥山を担いで山車によって山河を渡り、いわば玉を囲って延々と旅する、家のように立て組まれた文化で出来た代物なのである。 この章了(中断) さつまいも植えにゃあ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年06月01日 09時15分07秒
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