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カテゴリ:哲学研究室
イデアがアイデアに化け、アルケーがアーカイブに化けたとき、何が起こっているのか。
哲学つまり無知の知としてのフィシカ(自然学=哲学)が見失われ、科学技術的な対象と命題が立っている。同時に、そのアイデアとアーカイブを支える形而上学的認識が併せて、神の代理人(仲介者=コンセプト(一般には概念))として、こっそりと立っているのであるように思える。 それらは倫理・道徳であったり、美学・芸術論であったり、神学や宇宙論、あるいは全体を包摂する理論としての人間学や社会学、そして心理学であったりする。 いや、もっと普遍的に、法学や経済学であることもある。 人間にとっての価値や価値観の検討を伴った、最高の立て組み企画への問い、つまり形而上学的な問いが、必ず併存しているのである。 エイドス・エネルゲイア分裂によって形而下に示されているモノを対象とした学問(自然学)、ではなくて、それらが同時に形而上の何かを期待している学問が立っている。 人間中心主義と見えたこの事態には、この形而上、形而下の分裂を追放したのみならず、人間にとっての価値や価値観の検討を伴った、最高の立て組み企画への企画書が必ず加わってくる。 つまり哲学を放棄するだけではなくて、倫理学や美学、宇宙論、心理学、社会学などを必ず伴うものだということである。 しかもこれらの学問を、基礎ナシではなくて、科学技術的方法論という枠組みの中で伴うのである。工学理論の有効性が、それを基礎付けている。 これらの諸学は、やがて人間学という基礎技術工学に収斂するだろうと予測できる。 ニヒリスムスの完成を目指して、である。 人間が、主体性をもって対象的認識と関わる、その関わりのありかたを命題立てて、学問の体系をエピステーメ・テオレーティーケーではなく、アーカイブの全き知の体系として構築にかかっているからである。 今や基礎工学技術はバーチャル・リアリティーという名の、「人間の現実」すら構築に取り掛かっている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年06月24日 06時51分41秒
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