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2011年07月20日
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カテゴリ:哲学研究室
 ずっと東山魁夷画伯の絵には違和感を感じてきた。tvでその特集をやっていて、その違和感の理由を、自分で確認してみたいと思うようになった。

 日本画が影を描かないのは、単に遠近法といった技法を重視しないからという理由ではないはずである。もっと別の理由がある。
 日本画は、決して自然を対象には描かない。実在としての自然を予想してそれを抽象することもない。必ず、こころに写るモノの自然な有様、つまり具象なのである。
 リアリティなどとは無縁なモノで、人のこころのモノの有様をこそ描くのである。一種の漫画のようなモノと考えていい。但し時間手順を無視する無時間的な漫画である。永遠だとか悠久の時だとか、瞬間だとか未来だとかは想定しない。必要ないのだ。

 遠近法を重視しないからというのは、西洋の絵の方から見た見方であって、日本画の本質を見ているものではない。
 自然な様を描いているにすぎないので、時間に対して身構える必要の無い日本画には、遠近法などといったウーシア(現有)に直面する現存の時間構えは想定する必要が無い。
 日本画の本質では、遠近法は重視していないのではなくて、もともと唾棄すべき誤った技法にすぎないのである。そんな短期課題に囚われると、(こころの庭の)自然な様が見えなくなる。
 リアリテイを出現させ、ココロを騙しモノに変えてしまうからである。
 騙し絵だからダメという意味ではない。騙し絵なら、むしろ日本画の本質と合致するだろう。そうではなくて、あたかもそこに現実があるかのように見せる、つまりバーチャル・リアリティーを現出させる、そのような技法を嫌っているのである。

 こころの庭を、こころの庭として提示する。それにより、現実にある幽玄な農を伝える。つまり文化としての花一般を描く。
 それが日本画の本質だと思う。
 現実を語るのは、想定したモノではなくて、常に、こころの庭の方であらねばならない。それが、文化、ということである。カルチャーの意味での文化ではない。能や農の意味での、文化である。

 西洋の絵画では、こころの庭など、無いのである。画家の魂と、描かれるべく採り上げられ、観察され、研ぎ澄まされた対象物があるにすぎない。だから、バーチャル・リアリティーはなんら問題はないし、絵の技法に重点的に取り込まれる。
 東山画伯の絵は、まさに、この両者の間をさ迷っている感がある。
 日本語で、日本に根付かなかった哲学を語ろうとする、小生のような中途半端な状態だ、ということでもある。それが違和感を見せているのだと思う。西洋絵画ではないし、伝統の日本画でもない。

 ちなみに、小生は日本画より西洋画が好みである。





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最終更新日  2011年07月20日 06時24分36秒
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