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カテゴリ:哲学研究室
ハイデガー先生の特殊呪文、エクジステンツも、伝統の日本人には全く必要ない、不要だ、ということである。
現存は、伝統の日本人には常に一期一会で、そして世の価値のありさまは常に幽玄であった。 言わば、クソ難しい哲学が、エポケーやアウフヘーベンやエクジステンツしてそこに初めて立てる場に、もともと私ども膠着語を扱う種族は立っていた。 メという太古の言葉も、エ・ディンという原初の庭も、私ども黒頭たちの遠い過去のご先祖が見出して、人類に与えた言葉なのである。 しかし伝統の文化が支配し尽くすそこへ、科学技術とそのメを見張るような成果が乗り込んできた。 伝統の知恵では理解できない、無知との直面が、そこにあった。 それを獲得するために、西洋人の考え方を学ぶ必要が生じた。そのために、哲学がどうしても必要だった。そして、哲学導入の不純な動機とともに、自然という名のイデーが、美の理念やイメージという言葉、倫理や美学などとともに割り込んできたのだ。 もはや私どもの常識は、ぐちゃぐちゃヌメヌメの泥沼である。 クソ難しい哲学がなんともならんのは、私どもの日本語の思惟が得ていた伝統の世界を、文化導入されたパクリのエセ哲学者たちが、ぱくった知識で見えなくしてしまったことにある。 科学技術も付け焼刃で、ツギハギだらけだったのだが、和魂だというその制御システムが最もいけない。 洋才は、高給で雇われた当時の欧米一流の人が、それぞれ一流のモノを持ってきて日本のそれぞれの分野の第一人者となった。だから、インターフェイス追求の部分は未だに理解されず後手後手だが、なんとか今日の日本がある。 しかし日本式制御システムはデタラメなのだ。中国の新幹線並に、完璧に。 一流の哲学者は招聘されなかった。 西洋哲学は和魂でエセ哲学となり、中心に居座った倫理・道徳というシロモノが、哲学という学問の立場をすら、奪ってしまった。 そして西洋でもまた、その制御システムだと思われていた形而上学としての哲学は、ニヒリスムスであることがわかってきて、事実上20世紀で終焉したのである。 今でもその終焉に気がついていないのは、サイバネチクスに将来を託す、米国のプラグマチストくらいである。 落第生の哲学徒は、現代西欧世界の哲学者たちのようにソフィストの術を小出しに生き長らえるか、あるいは白昼ランプを下げてさまようラクダさながら、楽天市場の雑踏にまぎれてストア派だと嘯きながら、必要とされなかった身の上を愚痴たれるか、しかないのである。哲学は無用の学問であるがゆえに、クソ難しさから開放されることは無いのかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年08月02日 17時11分00秒
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