|
カテゴリ:カテゴリ未分類
その辺境地域が激動の時代を迎える。
399年、新羅から高句麗の広開土王へ使者。これは徐羅伐からの使者なのだろうか?サロ国からの使者なのだろうか?それとも秦韓諸国からの使者だったのか。 [倭軍が国土を占領して王を家臣としてしまった。王は、倭の家臣となるくらいなら高句麗に仕えたいので、ぜひ救援を送ってほしい。] 実は、この表現は、おかしいのである。秦韓諸国も、倭人12国連合の一部、つまり倭国の一部なのである。徐羅伐が反倭だったとしても、新羅地域の国すべてがそうだったわけではない。秦人はもともと倭国建国の壱與の時代から、倭人と一心同体である。 このとき、高句麗の広開土王は、自国の勢力下にあると思っていた百済が倭と結んで反旗をひるがえしたので、平壌城まで出陣していた。倭を攻めずに先に百済を攻めた。 こっちが大事だったのであろう。あるいは、これは百済・倭国連合の陽動作戦だったのかもしれない。 400年、高句麗の広開土王は、改めて5万人の大軍を新羅地域に送り、新羅の王城を占領。加羅(現在の慶尚南道金海邑)まで進撃したが、安羅(現在の慶尚南道安邑)軍が再び新羅の王城を占拠したので、高句麗軍は新羅まで撤退して王城を取り戻した。これにより、新羅王は高句麗の家臣として朝貢したとある。 この部分に注目する限り、倭国というのは安羅や加羅のことである。 安羅は安邪国のことらしい。咸安という記述もあり、現在の咸安あたりのことらしい。 古寧伽耶(慶尚北道尚州市咸昌)、星山伽耶(慶尚北道星州郡)、小伽耶(慶尚南道固城郡)などは六伽耶・五伽耶とまとめて呼ばれる。 この中で別格の勢力が金官伽耶で、駕洛国、もしくは金官加羅・任那加羅ともいい、現在の韓国の慶尚南道金海市に有ったとされる。狗邪韓国のことであると考えられている。前期伽耶連盟の盟主的な立場にあった。つまり古い時代の12国連合の主であったのかもしれない。 別に、非火伽耶というのもある。 状況証拠を見る限り、この時代の倭国というのは、この弁韓諸国伽耶連合、つまり弁韓6カ国のことである。一見、小勢力ではあるが、鉄を産し、高度な武器技術を持つ軍事的にも文化的にも極めて強力なグループなのである。民族文化も違っていた。 但し、倭国というのは出てこない。海の向こうの国だから、ではないと思う。 それは実は、もともと、新羅の旧領域も含めた弁秦12国グループの総称だったからではないのか。 歴代の倭王、つまり辰王はいたし倭軍はあったが、倭国という大きい国があったわけではない。秦人と倭人がいて、彼らはともに韓人であった。 これは新羅という大きい国があったわけではないのと、同じ事情なのである。そして新羅6ヶ国は、もともと、その倭国の一部だったのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年08月05日 08時09分04秒
コメント(0) | コメントを書く |
|