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百済の勢力下に落ちた旧倭国諸豪族と交渉し、勢力奪回計画を練り、後々の約束を交わして回ったのだろうと思う。後の時代の列島で、新羅の調として知られる事になる、膨大な兵糧の約束である。
更に唐に対する軍事援助の願い出。 「高句麗が攻めてくるので、助けてほしい。」 これにも自分の息子を伴い、唐の軍営に入れている。 高句麗と百済の連携が、本当にあったのかも知れない。 これは金春秋が絵を書き、倭国の主辰王の名を使って呼びかけた策略であった可能性もあるし、高句麗の主体的な行動があったのかも知れない。 いずれにせよ、小国の新羅では両面からの攻撃にはとても対処できないのである。新羅は唐の勢力下に入るしかなくなる。とても金春秋の策略とは思えない。 しかし、金春秋、金ユ申、蘇定方三者の結託した策略であればどうだろう。蘇定方は、すでに一度新羅救援に来ているので、旧知だし、事前相談もできる関係にある。しかも金春秋は女王を挿げ替えてまで、唐の機嫌を取るのである。 陰謀で殺されたので、別の女帝を立てたことになっているが、殺された女王善徳は反唐、親高句麗派。一方、次の真徳女王と金春秋は親唐の反高句麗派。わけがわからん、のである。ヒドンの陰謀というのも金春秋一派の仕組んだワナかもしれない。 654年に金春秋は三度辞退したあと、推されて新羅武烈王として即位。かなりの悪(ワル)と見た。 状況を察知し、好機と見た唐は、左武衛大将軍蘇定方を大軍勢とともに派遣。同時に新羅王も大将軍として認定する。つまり、小国を同盟認定したのである。派遣したこれは海軍であった可能性が高い。 そして古い時代の倭国領域そのものである新羅は挙兵し、伽耶諸国6カ国も新羅軍の中核戦力として出兵した。反倭国勢力、親唐の日本軍としてである。 百済と高句麗は、列島という未知の領域が倭国の背後にあることを知っている。そこを地盤に展開する、辰王を中心にまとまった列島本拠の倭国という、強大な勢力を味方に付けていると勘違いをし、はめられたのであると思う。 過去には確かに12国連合の軍事力は強大で、高句麗も手を焼くほどであった。だから高句麗は、まんまとはまってしまった。だが、この時代には、倭国には実体が無く、もはや完璧に新羅の一部だったのである。 白村江の戦い自体が、壮大な、でっち上げであったことになる。 唐に膨大な歳費負担と人的拠出をさせ、金春秋が新羅王として即位するため、そして金ユ申の一族が再び辰王を復活させるための、とんでもない規模のでっちあげである。 唐の大将軍も、このとんでもない陰謀に加担していたと、みなしたい。しかも同じ倭人であったと。 これにはめられて、百済も高句麗も滅んだ。唐も国が傾くほどの膨大な軍事費を拠出した。高句麗は滅びたが、渤海が生まれ、強大化した新羅が離反し、唐にとってはロクなことがなかったのである。 そして失われて久しい12国連合のあった弁辰地方、つまり倭国の跡地の新羅地域にではなく、海を隔てた列島の地に、美馬那と秦の遺民たち、更には百済の亡国の民と唐の軍民までが上陸してくることとなる。 イツセの神々、八百万の神々とともに。 これは倭軍ではない。新羅の軍勢、つまり日本軍なのである。 これが新しい国を作る契機となるのである。天智天皇の身元も生涯も、これでは極めて怪しくなる。 しかし、不審な点はいっぱい、あるのである。特に天智帝以前の天皇は完璧に怪しい。天智天皇陵界隈に新羅の森があるあたりなんぞ、もっと怪しい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年08月08日 10時18分40秒
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