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カテゴリ:哲学研究室
本稿は、哲学として、つまり自然学として経済を問うものである。
しかし根には、経済の仕組みを理解して、もうけ話につなげたい、という意図が入り込んでいるのである。不純な動機がある、ということである。これがどういう意味をもっているかは、そのうちわかってくるだろう。 さて、経済というモノは商業取引の集合体という形で見えている。それははまた同時に、それらの取引を動かす、未知のダイナミックな力としても見えている。分裂している。 ここに経済そのものがある、と、それらの分裂が実在だと思い込んでしまうからおかしなことになるのである。見えているのは自然であるが、自然学が学問の観想の対象とするものは自然ではない。身体を張った経済取引きが対象だと思うから、おかしくなるのである。自然は哲学のアルケー(始原)にすぎない。挑むべきは常に、ウーシア(現有)なのである。 個々人の身体(こころ)が直面する現にあること、具体的には労働や、賃金を得ることや、税金を払うこと、商売すること、など、個人が直面する生存をかけた課題が、自然学の対象となりうるべき事柄なのである。 つまり自然学としての経済学というのは、お金の価値を計算したり、儲け話の中身を企画したり方程式化したりすることとは縁遠いナニカなのである。 しかし現代の経済学は、儲けることのみならず、価値や倫理や論理、はなはだしくは救済や人々の運命までをも論議する。しかも科学技術だという考え方も大手を振っている。 これらの理由や、自然学との違いをも明らかにしていかねばならない。 しかも本稿は経済哲学ではない。 これをまず、明確にしておきたい。経済理論や倫理のためにする擬似哲学ではないし、基礎を探って、コンセプト提供の目的を持ったソフィストの術でもないということである。 本稿は純粋な哲学(自然学)を目指すモノである。 物理的自然や環境的自然が自然だと思い込んでいる向きには、まるで無縁な思惟である。また、形而上学が哲学だと思い込んでいる向きにも、同様である。 この、経済学、というモノの中にも、様々な目的や論議が入り乱れて泥沼になっている。その外延あたりからカタログ化整理していってみたい。とりあえずの仮カタログである。これは、カテゴリー分類のような、崇高なモノではない。仮の照明である。 1、儲け話の企画としての、儲け目的の経済学。 2、政治支配が目的の技術体系を得るための経済学。 3、社会の仲介者である経済という媒介の理論化を探る、社会操作学としての経済学 4、未知の資源、経済活動という未知の人間関係を探るんだという、人間学的経済学 5、カネと経済社会という現有の中に直面する個々人の活動の根源を探る、経済哲学 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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