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カテゴリ:哲学研究室
1は、本来の経済学である。企画と延長、そして実証確認と目的検証がある。残念なことに、この分野の研究はおろそかにされている。取り組む人も少ないと思う。
1の定義を述べる大概の人の念頭には、実は2、がある。目的が混乱しているのに、それを整理せずに、技術命題を立てて誤魔化すのである。特に政治支配目的では、科学技術の企画ではありえないのだが、それを主張する人さえ居る。酷い場合は哲学だと述べたりする。 身体の自由以外の目的をもってする哲学などは、ありえない。 現在の経済学のほとんどが、この2の政治支配目的である。 何をするにもまず予算策定から入るので、経済活動自体が、政治だと思い込んでいる人すらいる。 文句の多い住民を騙して、議会筋の同意が得られやすい経済効果を上げることが、政治だと思っている町長もいる。 3、の経済という仲介者の理論化を探る、社会学としての経済学だが、これはコンセプト提供の軽薄な形而上学と成り果てることが多いだろう。 経済哲学と銘打った多くの思惟は、大概が、この分野である。 金銭という数値可能なデータをもとに、社会という全体像を掴んで、操作できる機械技術のようなモノに仕立てたい。誰もが、そう思っていることだろう。 ところが、カネの力だけでは、人のこころは動かせないものである。 4、の経済学が、もっかの経済学の最先端である。 未知の資源、経済活動という未知の人間関係を探る、という、1のテーマと連携してのアイデアと切り口が生きてくる、注目も集めやすい分野である。 要は、エンターテイメントとしての経済学だということである。人々の注目を集めて、それで稼ぐのが目的で、あわよくば新手の経済法則の一つも見つけ出して、経済活動の基礎ともなっている経済資源を整理し、人間の行動もそれで囲い込めるだろう。 つまり、人間を経済活動として全体把握し、その倫理や論理も見出して制御できるようになるかもしれない。 裏で糸を引いているのは、やはり1と2、特に2の理念である。資源と人間関係を未知のものだと、仮の無知を、ここに持ってきただけの違いである。 それでは5の経済哲学というのは、ナニをするのだろう。 経済とは何か、その基礎を、人の経済活動の根源に辿って問うのが経済哲学であろう。 但し、これが経済の基礎付けであるかぎり、それは哲学ではありえないし、経済というモノの基礎を離れる限り、それは経済学ではないというジレンマに陥る。 つまり、早い話、経済哲学などというモノは無いのである。 経済を対象に哲学を主張する人は、モノを見ずに人知の権力を仲介する形而上学を目指しているだけである。人間の現存という無を覗き込み、最高の倫理を問い、権力支配の万能の指輪を得たいだけである。唾棄すべきニヒリスムスの病だということである。 * サルには、こんな電柵は役立たなかった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年08月21日 07時20分05秒
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