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カテゴリ:哲学研究室
貨幣数量説というのがある。
社会に流通している貨幣の総量とその流通速度が、物価の水準を決定しているという経済学の仮説であるという。貨幣にバーチャルさを与えようとしている。 貨幣中立説というのもある。 根拠経済活動の本質は全て物々交換であり、貨幣はその仲介を行っているに過ぎないとする古典的な説である。神のごとき存在。 問題は、貨幣価値や物価価値が、人の経済活動の屋台骨であるかどうかである。貨幣価値と物価価値との関係式の前に、その関係式が人の自然な活動、経済活動と、どう関わっているか、である。 価値は価値観がもたらし、それは目的が持ち込んだ美人局なのである。 それが物価を決める。 貨幣は人の自然な活動において、他の固体生命を搾取するための投資財であるが、それゆえネズミ講的な講の存続に負うている仲介理念にすぎない。 その仲介理念に過ぎない、ということを誤魔化すために、社会全体の経済的運動量とか、流通速度とかいった新しい弁証を導入し、まるで経済社会という新しい巨大な生き物がそこにいるかのように、本来は対象化できないバーチャルな部分をコンクリートして来た。 立て組んで来た、というべきだろう。 宇宙物理における光の存在と、経済における貨幣の関係は良く似ている。 言わば社会全体で、巨大な形而上学を構想してきたのである。 グローバルな経済社会という、未知の魔物が、そこにいる。 これは関わる人々が共有して作り上げてきた魔物だが、いわばコックリさんのような制御し難い魔物である。 これが突然、破滅的な方向に動き出しても、今日の人々は有効な制御理論を持てないのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年09月17日 08時16分58秒
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