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カテゴリ:哲学研究室
人間疎外というのは、対象化が、かりそめのモノであったとしても、主体を立てて考える対象化認識における宿命なのである。
西洋で語り継がれてきたエ・ディン(エデンのこと)からの追放とは、このことを言う。 つまり人間疎外は、哲学の生い立ちと密接な関係にある、と言ってよい。 小生の大学の恩師が、哲学とはナニカ知らぬままに哲学科哲学専攻にやってきた出来の悪い学生たちに対して、これだけは受け継がせようと努力していた。それが、この対象化認識のさいに疎外されて生じる、無知についての知である。 哲学を学ぶつもりであるなら、最低限、これが哲学だと言う無知の知に一つだけでも出会ってほしい。得た知識で理屈ばかりこねる学生に対し、三村(みむら)先生は、繰り返し、そう告げていたように思うのである。 物事をクラス化し、対象化して考える限り、クラス化の枠にはまらなかった、疎外された無知の無限の領野が取り残されることになる。 パンドラの箱を開ければ、希望が残るのだが、哲学という禁断の箱を開ければ、価値も知恵も飛び去ってしまって、無知だけがそこに残る。 合目的対象化認識、つまり現代の科学技術的認識が企画される場においては、哲学とは、縁が切れないということである。だが、この無知を見ることが出来ずに、縁切りしてしまった人の方が多い。一流の科学者からでさえ、神はサイコロを振らないとか言って、哲学を捨てて神の方へいってしまった人が出た。 この無知の領野というのは、最近の天災や人災で、日本の人々にも知られるようになってきた、「想定外の物事のこと」を言うのである。昔の日本人には無縁だったのだが、自然さえも対象化してしまう欧米化の中で、この認識は重要となってきた。 しかし、想定できない諸々など、ありえない。今は未だ無理だが、全ては必ず想定できるはずだ、と考えるのがサイバネチクス論者である。 不幸にも、世はそんな人々が権勢を持ち、より精緻で正確な技術をもってすれば、解決されない想定外など起こりえない、とする人々で、溢れている。 できない、わからない、と否定的言辞を弄する人は退けられ、わかる、わかる、と手をあげている人だけが優遇されているのである。 正直に悪い報告をした人は左遷されているのが実情だろう。古のハンガリアの大王アキラの処遇と逆である。(大王アキラは、アッチラと、誤って西洋に伝えられている。) 経済のカネの動きさえも政治的に制御できていないのに、全てが囲い込めると思い込んでしまっている。 あらゆることを想定して、対象化認識が可能だと思ってしまっているのである。 残念ながら、人間疎外というのは対象化認識における宿命であるがゆえに、想定外のことごとは無限に生じる。 なぜなら、人は有限で無知なサルの一種であり、神ではないからである。そして対象認識は、学問の企画やクラス構築した、神の手のごとき命題の対象化手順に従うのではなく、自然で分裂した認識にこそ従うのである。 バーチャルな認識。あらかじめ分裂した違和感としてもたらされている自然であり、身体が実践労働として執り行う、生命の経済活動としてである。 対象化認識が、命題を立てそれを想定して執り行う科学技術やその認識がいけないと言っているのではない。それは理解していただきたい。 合目的な対象化認識を得ることで、人は技術を科学技術にまで高めた。これを手放すことは、もはや、できない。 特に数学を使うことで、この合目的対象化認識運動は、核融合といった、星の執り行う経済活動までを、時間のクラス外でであるが、得ることさえ可能にした。 しかし同時に、自然(という経済)を見失い、人間をすら、想定外の場所に置き忘れて疎外してしまった。 更に哲学をも見失い、技術とはナニカ、自然とはナニカ、経済とはナニカ、そのことが見えなくなってしまった。 自然というモノ自身と現存における最高の問い、つまり形而上学的問いを対にして立てることで、無知の知ではなく、ニヒリスムスという想定外の無知に至ってしまった、その無知の事実を評価なしに述べているのである。 *何度入力しても文字がだぶって楽天サーバへのアップロードもトラぶって、ついさっきにはあげくに、あなたは偽装サイトに接続しようとしています、と出た。 ナンジヤロネ、これは。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年10月20日 14時11分45秒
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