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カルトと化して究極の宇宙理論を説明するよりは、外来の偶像を受け入れて、食われないブタになる方が幸せであると、小生は思っている。
中国人商人とともに、信義を重んじる関羽帝もやってきたし、ケンタッキーフライドチキンといっしょにカーネル・サンダース像もやってきた。由緒のわからないビリケンさんや、由緒の明白な食い倒れ太郎とともに、これらはすでに神像のお仲間入りしている。つまり日本人の神々なのである。 ところが敗戦とともに、この傾向が怪しくなりつつある。 神々が、自然という名の存在者の背後に、姿を隠しつつある。つまり自然という名の唯一の偶像が立ちつつあるのだ。 アケメネス朝ペルシャや過去のモンゴルのように、他の文化、他の宗教に寛容で、布教活動も教えを垂れるのも勝手、というのが、もともとの、わが国の伝統だった。 江戸時代のキリシタン弾圧などは例外的で、あれは布教活動を地盤にした政治的侵略であることが認定されたからである。仏教はもとより、ヒンズーの神々も道教の神々も無害だったが、キリスト教はそうではない。宣教師は国を乗っ取るために派遣されている、そう認定したからなのである。 フランシスコ・ザビエルの偉大さと献身的なその努力を疑った日本人など、一人も居ない。 しかしその背後に、偶像化できても決して対象認識のできない矢印のしっぽを持った神が潜んでいることに、やがて冷静な人々は気がついたのである。日本人は対象化認識できないのに、西洋人はそれを存在者の存在だと言う。不信感が爆発したのである。 日本では古来より神々は姿も形もないものである。存在者の存在ではなくて、常に仮の偶像であり、神々のチカラとしか言いようが無い。超自然的な、つまり人の認識を超えた不可解な力の数々なのである。 キリストの神は違う。 実は今のイスラームの神も、ユダの神も、お仲間である。 存在者の存在であることを主張する。これらの神は超自然の未知の力ではなくて、「自然存在であることを」、自明なありてあることを主張する。 さらに、人々を契約に強要する。自ら大日如来であると告げて、こちらに来なさいという。TPP参加が勝ち組みの条件なのだと。 理不尽な権力ではなく、人の認識を超えた不可解な力の数々でもなく、未知の自然、未知の始原だと言うのである。 私どもの祖先の神々(の力)は、そのような独善的なカルト契約を、決してお許しにはならない。 * 工事中4番囲い予定地 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年11月13日 08時40分47秒
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