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これらを自然現象であるとみなすということは、実在として対象化した、ということである。印欧語では当然、対象化の核となる主語を立てねばならない。だから、そこに契約を立てた。
未知の存在者が力をふるい、都市を破壊した。 そしてその「自然現象」という名の対象は、人知を超える神の力だと認定された。だが更に、そこに神自身が実在して関与している、しかもその神は未知の力ではなくて、自然の背後にいる実在の存在者であると、認定したのである。 だが、契約の相手方である神と、その力は、どこで繋がるのか。しかもその神が悪霊でないと、神々相互の「誓約」なしに、どうしてわかるのか。どうして契約などが可能なのか。 自然を対象物だと思い込んでしまうこと。 ここに問題の核心がある。現代の文明がニヒリスムスに落ち込んでしまっている、問題の核心である。 自然学フィシカの著者であるアリストテレスも考えなかったような、単一の見えない自然を対象物だと思い込んでしまうと、実はこのような存在者の存在が示す力が、契約の相手方になれる力だと錯覚してしまう。 命題が正しい、と思い込んでしまうのである。命題は単なる主体性の核にすぎず、契約でもない。正しいとか誤りとかとは無縁なのだが。 自然は対象物ではないし、契約できる相手でもない。そこに見出した力は自然のモノではなくて、人が命題を立て、機械技術で作り出した人造のモノである。 むしろ人が、その神は悪霊であるのか、神であるのか、誓約に立ち会って認識する力のことの方を自然、というのである。日本語ではじねん、あるいはしぜん、と言った。 じねんとは自ずから、あからさま、ということであり、しぜん、というのは時に応じて、あるいはたまたま、ということを言う。 アブラハムたちの目の前で砂漠の水平線の彼方に赤々と輝いて落ち、二つの繁栄していた通商都市を壊滅させて塩の死の海にしてしまったその力は、”たまたま、あからさま”ではあった。だが、YHWHやエロイムと、どこで繋がるのか。エロイムというのは名の無い神々(の力)なのである。 yhwhは、発音できないが、ありありと目の前に在り、在られるもの、であるという。存在者の存在、つまり対象としてのモノ自体を言う。メー・オン(神々の力・存在)のことでもある。 この対象化は、自然の意味を捻じ曲げて仕立てた主体側の、契約ということの1点が、支える。 ウイキに面白いことが述べられていた。 「ユダヤ教徒(キリスト教徒、イスラム教徒)は、闇が主要素となる宇宙空間を構築した正体を、ヤハウェ(ゴッド、アラー)であると考えている点である。エロヒム(**)はアラハヤム(アラー)とも読める。また、ヘブライ語ではエジプトの太陽神のことをアラー(**)と表記する。」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年11月21日 08時09分00秒
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