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これは個人契約が種族契約となる、その問題でもあるように見える。
実は、違うのである。 契約とは全く異なる、神々相互の誓約(うけい)の問題、なのである。 契約は個人個人のものだが、誓約は、かならずカルトである。神々の力の前に、個人の契約など、ありえないからである。カルトとして誓約の場に立ち会って、ご利益を得る。 あるいは人相互の契約行為の背後に、このカルトを介在させて保障してもらう。 これが正しい神との関係の持ち方、つまり誓約(うけい)立会いのありかた、である。一神教の場合は、神との直接個人契約になるので、このカルトの役割と意味が極めておかしげなものになってしまう。 デーンマーク教会とキルケゴールの紛争を見ていけば、それは明らかと成る。キルケゴールは無一文となって死に、この紛争は教会が勝った。だが、勝利者が正しいとはかぎらない。勝利は善だなどというのは大概が悪魔の主張である。 むしろ例外的単独者の宗教家は死んで、教会のもとに神は死んで久しいことを、哲学的に証明したのである。 一神教のカルト組織は、神との契約を個人に強要する。そして、カルト自らは神の背後に隠れ、時には欺くのである。子羊の皮を被った悪魔であったりする。 カルトである、ということが表に出ないために、騙される人が大勢出てくるのである。 神と契約して信仰しているのに、いつのまにか教会と契約して貢いでいることに気がつく。神がこう、指導されておると言って、理不尽な命令が教会から下る。サリンが撒かれる。 破門されれば、それは村八分以上のものである。時の皇帝でさえも、破門には怯える。 神々相互のうけい(誓約)の立会いで立て組まれるはずのカルトが、個々人の唯一神との契約によって生じる負債に化ける。この一神教特有のカルトは、契約書の背後に消えて、教会がカルトの主として、のさばり出るため、見えなくなるのである。これは現実が見えなくなる、ということと同義である。 ありてある唯一のもの(ナチュラルなモノ自体)が契約に化け、個々人の信仰にも化ける。さらに人々相互の絆にも化ける。 かくして、神と子と聖霊、が一つであるという問題は、それがカルトを支えているのに、支えているモノが見えない事態となる。 見えなくて当然だと思う。 そんなものはないからである。 カント先生の言うとおり、モノ自体などは無いし、ありてあるモノが唯一で全てだということもない。先生は敬虔主義のキリスト教信者だったが、カルトを利用して哲学を誤魔化すことは、絶えてなかった。 人は有限かつ幽玄な存在であり、神々の力を窺い知ることはできない。 しかし、自然(あからさまに・たまたま)として、神であるか悪霊であるかは見分ける能力が生まれつき与えられているのである。そしてそれは、カント先生が言う、本性として自由な認識をもつ、ということなのである。 * こいつの収穫開始 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年11月24日 07時59分36秒
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