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全く同じ事を、資本論という大著を通じて述べ、ユダであることをやめた人物が居た。
この人物が述べたのは、資本との契約という形での、唯一の神の死についてである。 金満家のユダ全てが、すでに陥っている事情の先取りである。 彼はもともと唯物論者だから、神とは関係ないだろう? とんでもない。唯心論も唯物論も、唯神論でさえも、神々の力抜きには語れない。 只一つ、超越(メタ)という考え方、契約という始点があればいいとする考え方、それらは誓約の儀式抜きに、つまり神々の力を無視して直接神の権威を語ってしまう。 カルトを誤魔化して見えなくし、それも美の彼方に超越させてしまう。 但し無一文で死ぬ運命にある例外的単独者であることを除いて、超越的存在と個人が関わることはありえない。 神々の力 は存在者の存在として、日常のそこに居るモノとして関わるのみで、その関わっていることも、誓約の儀式抜きには認識できないだけである。 たとえば科学技術などは、この誓約の儀式の一種だとみなしていい。だが、命題的対象化された力のみを純粋化して対象とみなす儀式をやっているわけで、未だ神々の力を利用しているわけではないのである。そして、科学技術と無縁な世界に、超越的存在者の世界が別個にあるわけでもない。 実際には経済的世界があるだけである。 人は有限かつ幽玄な身体をもつ、ひ弱な生き物で、経済的に他人を搾取して生きることができるだけである。 神との契約によってではなく、神々の誓約に立ち会って生き延びる、寄生生物のような惨めな存在者である。 崇高で偉大な唯一の神とともにある、というのは、資本や科学技術とともに、地上で権力を増しつつあるユダの醜い部分を見えにくくさせているだけである。 ここで述べた事柄は重要なので、反芻していただきたい。 これは小生が考え抜いて述べたことではないからである。むしろ他者が立ち、それを自然に告げているだけである。 1 科学技術は命題を立てて始めるカルト契約ではなくて、誓約の儀式の一種(というカルト)である。 2 ところが、当の神々の力を無視し、命題的対象化された力のみを純粋化して対象とみなす儀式に始終してしまっている事が多い。 * まもなく終わり お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年11月29日 08時04分18秒
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