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カテゴリ:哲学研究室
無知の知としての哲学(愛知)が生きており、その無知を確認できる立場であれば、自然という認識の様は、とうてい対象化して探求しうるモノではないコトを知っているはずである。
したがってカテゴリーという分類された実在の概念も、宇宙論や神学、心理学、社会学、そして倫理学や論理学を、形而上で支える絶対の真理などなどでは、あり得ない。そのことにも、気がついているはずである。 眼前に様々な驚異があるのは事実である。だから日常的に、その自然な様の機械的要因や因果性を尋ねたり、関係の様を尋ね、カテゴリーで整理してみたりもする。 それは自然という見えていないモノの、実在のモノ自体を尋ねているのではない。 人々の無知と知識の仲介役をする、ソフィストの術ならありえるだろうが、そもそも哲学のアルケー(始原)に直面しての無知の確認は、そんな命題を立てるはずがない。 そうではなくて、分類された実在の概念で論議化し、現存へと身構える無知の知の立場へと、自然な認識の様へと誘っているのである。 この自然な認識の様のことを、カント先生は人間の本性としての自由だと述べた。 社会生活を営んだり、安定した日常を齎したりするには倫理や道徳という社会規範と縁が切れないのだろうが、人の本性は認識に囚われる者ではなくて、自由なのだと。 人は経済活動をする生き物なので、諸々のしがらみや社会規範とは縁が切れないし、そんな日常の中で現存と直面して生きていかざるをえない。 しかし、そのためにこそ、本性としての自由が与えられている、そしてこの自由というのは、虚無の上に立つということではなくて、人が先天的に持つ認識力のことなのである。 それが、自然である。 古代ギリシャ人はこれを、フュシス(自然=露な認識)もしくはアレーテイア(隠れ無きこと)と呼んだ。 日本語では、自然(じねん、もしくは、しぜん)と呼んでいた。 大宇宙とか天然の自然物である素材といった、現代の常識が見ている意味は皆無である。 じねん、とは自ずから・あからさま、ということ、そして、しぜん、は、時に応じて・たまたま、ということである。モノを示す言葉ではなく、言語としては副詞である。 いずれも囚われ無き自由を、その認識の様をこそ、言うのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年12月04日 07時55分59秒
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