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カテゴリ:哲学研究室
デカルトは、明晰判明で疑い得ない認識のワクだけを、エゴとして道標のように見出した。その後、やがて延長(レス・エクステンサ)と、考える主体(レス・コギタンス)をも見出す。
これらは形而上学の契約の中で、神の名のもとに、しかし乖離として見出したのである。世に二元論という言い方をされる、哲学的認識の分裂である。 思惟する主体は延長という名の対象を認識し、諸々のイデーに、そのありてある、という認識のありかを、乖離として示しているのだと明らかにした。 しかしすでにスキエンチアの理念に基づく思惟方法しか取れないカルトの人々は、乖離という哲学の部分を、無視したのである。判断中止は嫌だったのだ。そこからが本当の思考なのに、思考停止だと思ってしまうようである。 乖離は、どうでもよくて、これだけは明晰判明で疑い得ないという思惟の最小単位が文明には有用だ、ということなのだと。明晰判明で疑い得ない主体と対象の関係で延長的素材を把握すれば、もはや怖いものはないのだと。 存在者の存在は神であったが、その被造物は神がお造りになった宇宙という延長であることになる。思惟する主体であるエゴが、それを延長として認識しうる最小単位の枠組みさえ定義すれば、未知の存在から切り取るものは、もはや見えぬモノではなくて見えている枠である。 かくしてその純粋な枠は、それまでアリストテレスが対象認識に扱っていた自然(な様)をもじって、認識の最小単位としての「自然というモノ」だと言い出したわけである。 この憶測は未だ間違っている部分があるかも知れない。だが、ギリシャ的自然認識が、近代的な意味での自然物となったのは、デカルトの思惟が見出した視界の悪用によるものが大きいと思う。 古代から近代のどこかで、自然の意味が、完璧に、すりかわっているのである。 デカルト以降、自然は明晰判明に把握できる最小単位のモノとして認識され、やがてライプニッツのモナドロジーとして、形而上学的には最高の域に達することとなる。 小生はよく偉大なるライプニッツと言って来たが、その華厳世界の荘厳さは筆舌に尽くしがたいものがあるからである。数学の業績なども、ケタはずれている巨人族の一人である。 モナドロジーは、一言で言うと、全宇宙のコンピューターネットワークである。 しかも宇宙の全知識が詰まったようなデーターベースである。自然界の微塵の一つ一つがそのコンピューターで、全宇宙を照らし出している、というのである。 仏典の華厳経が、実は類似の思想であることも、よく知られている。 そして実は、今日の自然環境論などは、モロに、この形而上学の軽薄な継承である。 基礎論を仕立てた人がミリュウという名のモナドの説明から始める、などというのは、まさにそのとおりなのである。 また分子論や原子論は古代ギリシャの昔からあったが、量子力学や素粒子という科学技術理論も、それらの「自然観の影響下」にあると言っていいと思う。 ライプニッツの形而上学は、デカルトの視界だけで可能になっているというわけではないだろう。だが、今日の科学技術が扱う対象素材としての自然は、デカルトの認識論の視野が可能にし、なおかつライプニッツの形而上学風である、と述べておきたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年01月01日 09時17分04秒
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