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2012年01月28日
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カテゴリ:哲学研究室
 文化という言葉は、カテゴリーなどと同様、その形而上学的用語である。特定の範疇がある、わけではないのである。範疇を政治的にこしらえることでもない。
 つきあう以上、まず認識しておかねばならないことは、文化そのものの正しい定義など、本当は無い、ということである。作り上げても、それは空しいダメな形而上学である。
 
 その上で、あえて文化という言葉を定義して使おうと思う。
 日常の上でも、漢字の意味が導いて、常識的な意味が成立している。
 文で教化し、日々の暮らしにあって露に見えているモノについて、歴史記述し、明るさを見せる、そんな程度の軽薄な意味でいいと思う。
 cultureの意味は皆無で、むしろヒストーリエに近い意味である。日本語の場合には欧米語とは根本から異なる特殊事情が付加するからである。自然に見守る、と言わなくても、言葉が導いて、そうしている。
 日本語には、もともと(自然)私、という主語もなければ、対象のモノもないのである。
 日本語では、文化はそれだけで使われる。文化放送、文化祭、文化庁。
 英語のcultureでは、こんな用途は成り立たない。かならず具体的な対象物を持つナニナニのカルチャー、なのである。日常の言語に唯心論はありえない。
 日本語で私どもが常識的に日常使っている文化の意味に、カルチャーは全く嵌らない、ということである。だから小生は、ムリにカルチャーの意味を使わなくても、文化は歴史記述して見守るという意味でよい、と言っているのである。

 欧米のcultureにおいても、cultureでは見えていないナニカが、欧米ではかならず名指されてある、ということである。colereの伝統が、未だ僅かだが生きている。
 日本語には、それの伝統が全くない。哲学もなかったのである。もともと、空虚にどっぷりと漬かっている。
 見えない理念を見ようとしていた明治期の日本人は、欧米人が必ず対象認識と主語を明確に立てる思惟を持ち、それによって見失っているe-dinという庭があることすら理解していなかったと思う。だから、cultureの訳をも、読み間違う。キーウィリザティオーの精神化だ、と博士の肩書きを持つ人が読んでしまう、実に嘆かわしい混迷文化の有様なのである。

 明治期の人々は、未だ誓約の庭、捌きの庭、そして日本文化そのものである庭というものを、単なる居場所(dort)でない、ソコだと、理解していたはずである。
 形而上学ではない、認識の無知と知がそこで立つ、未だこころでもモノでもない自然な様を、である。





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最終更新日  2012年01月28日 09時42分09秒
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