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カテゴリ:哲学研究室
人のココロとモノを立て、組んでゆくのは、クラスを準備するという経過にあるのではなくて、それが力を発揮するインスタンス・コピーによってである。お膳立てされたミメーシスである。
時間手順がねじれていて、逆なのである。後のモノが原因で、立て、組は起こっている。これを見て、ハイデガーは時間は未来から過去に流れる、と言っていたのである。 そのテクネーの繰り返される様が、ポイエシスである。立たされた、こころの場所で、オブジェクトが歌いだされる、わけである。それが、出来ちゃった、ということである。 クラスとして認識され、型枠化されることのうちに、すでにモノもこころも組み、込まれている。そこが固有の場所(トポイ)となっている。 この場所は、しかし固有の身体的自由をもつ人の庭ではない。ロジックで作られたクラス、つまり方枠なのである。過去を持たないが、未来を構想する理念の枠組みである。 その人の、固有の場所ではない。固有ではなく汎用に作り上げられた場所(トポイ)を持つ汎用の型枠だ、ということである。 但し、オブジェクトがこれを投企するので、オブジェクトを持つクラスとなる。つまりオブジェクト・クラスとして初めて認識できる。しかし見えないクラスが、主導権を握っているのである。 西洋で起こったイデーと倫理・道徳の関係の縮図が、ここに見て取れる。 直感の形式であるクラスで立て、組まれた、当のこころが行方不明になっているのに、人々は、そのこころがはまるべき倫理や道徳を探してきたのである。こころが行方不明なので、それがはまるべき倫理や道徳など、当然どこにも無いに決まっているのに、である。 智者の見出したテクノロジーは、その不毛な論議に回答を与えてしまっている。 ライプニッツは、アリストテレスがミメーシスとカタルシスとして述べていた自然と自由を、人のこころ抜きで、表象と欲求という理念に染まったモナドのデーターベースにしてしまった。 そして20世紀に、再度見出されたクラス・テクノロジーが、今後、あらゆるものの普遍を支配することになるのである。 だから哲学は不要となって、アカデメイアから追放された。 小生もライフワークとして学んだ哲学では食えなかった。 優秀なアリストテレス先生は田舎の王室に家庭教師の職を見つけられたし、ハイデガー先生はナチス党員となって学長にもなれた。だが、落第生の小生には哲学の続けられる職はなかった。ほぼ40年間、ムダにした。 しかしこのクラス・テクノロジーは、ミメーシスとしてアリストテレスが述べ、カントがシェーマとして述べたそのモノではない。それ固有の庭を、つまり人の自由で自然な認識を持っていない。 だから小生はテクノロジーを、自然をモノ化した究極のニヒリスムスだと断言して、わめいているのである。小生が哲学に専念できなかった本当の理由が、そこにうっすら見えて来たから、である。見えない敵を見つけたようなもんである。 現代のテクノロジーは、もはや自らの形而上学を形而上学として確認していない、対象として認識すらしていない、虚無の上に立った虚無主義であると。 これはプラトニズムが関与した虚無主義というより、アリストテレスの逆読みで起こってくるモノである。 この問題は最終章で採り上げたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年02月24日 08時21分46秒
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