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カテゴリ:哲学研究室
ここまで読み続けられた辛抱強い人は、もう、耳にタコが出来ただろうと思う。
自然とは、オノズカラゼンタル輝き、つまり人の自由認識のことであって、対象物のことではない。 ソコに、たまたま露な、(つまり未だ、ソコにある、と反復されていない)個人の認識のことである。ソコは明晰判明ではなくて幽玄である。 認識の権能や機能のことでもなくて、オルガノンは未だ計測ツールとはなっていない、のである。当然、未だ宇宙でも環境でも里山でもない。 そもそも、モノではない。何んにも、ない。しかし、何処か、というトポイはコギトの場所に、ある。 科学技術は、理念やイメージの導きで、仮想現実のクラス、つまりヴァーチャルなクラスを先験的に仕立て、そのクラスで切り取り仕分けて、たまたま露な現象や事象を繰り返し露に剥く。ミメーシスという権能を仮想的に仕立て、利用している。 実験を繰り返す、ということである。これは経験を積む、ではない。未知の領域を相手にしている。経験的実在論は、これも素材化され組み込まれてしまっている。 それが証拠に、科学技術に経験的実在論は不要どころか、邪魔者である。 そして理念で立てた経験的事象のすり合わせを積み重ねて有用なインスタンス物だけ選り分け、帰納的に有用なモノを得るのである。 それが純粋素材、つまりナチュラルな物である。私どもの常識が言う、今日の自然ブツである。これは何と、「テクノロジーでインスタンスされた画一の製造品」なのである。 ネイチャーというのは、スキエンチアが分類済みで、「有用と認定済みの製造製品」のみを、言うのである。カルチャーで見守り分類し、ネイチャーが見出される。 それ以外は、グノーシスな、単なる知識のクラスターにすぎない。 ネイチャーは、価値があるモノを言う。 たとえば絶滅危惧種の遺伝子、野生の原種の遺伝子などは今後の有用さは計り知れないと言われている。深海や宇宙の資源に到っては、未だ想定のみであるが宝の山だと言われている。ダイヤモンドでできた小惑星もあるかもしれない。 これらはほとんどクラスター扱いだが、実は、いつでもネイチャーとなることができる、クラスの在庫製品なのである。これからの時代を支えるオイルシェールのようなモノである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年03月24日 07時35分55秒
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