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カテゴリ:哲学研究室
法則、と呼ばれるものは自ずから理念共有・弁証なのである。その目的がある。
同様に、堅固きわまりない数学もまた、仮想の目的への手順や道筋に導かれた共有・弁証なのである。未知の未来を探っているのではない。概知の過去を手繰り寄せて言い訳しているのである。 人の認識におかしげなネジレがあるかぎり、つまり人の命が有限であるかぎり、絶対確実なものはどこにもない。ディアレクチークは、エンターテイメントで立てたウソの言い訳だからである。 ひっかき傷もつかないような仮想の刀で数学の絶対性を切り捨てたので、次は論理の絶対性を、ばっさりとやりたい。 論理もまた、人の共有・弁証のためにある以上、絶対性など持ちようがないのだが、共有・弁証に関わらないように見える、直感的自己認識に関わる論理があるとされている。 古来、演繹法と帰納法が見出されており、この二つの論理の有効性を疑う者はいない。 演繹法とは、大前提から次に立てた命題を引っ張り出して弁証するための理屈である。 一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る推論方法であると言われるが、目的はあくまで弁証なのである。 概念の正当性の弁証を意味する。推論ではなくて、必然性の示唆であり、概念の正当性の弁証を意味するのである。 三段論法にしなくても、記号論理学によって記述できる論法は、すべて演繹であるとされているようだが、これは概念の正当性の弁証を考慮しないように見える。むしろ概念の正当性の弁証を忘れ、自動化するために記号論理があるのだから、当然だろう。これは数学的方法だ、ということである。 論理を使う目的は、数学ではなく哲学である。 人は必ず死ぬ。ソクラテスは人である。したがってソクラテスは必ず死ぬ。 人は死ぬという大前提から、ソクラテスという個人の死の正当性の弁証(いいわけ)をしているのである。目的は人は死ぬという理念に関する弁証なのである。正解を導くこと、ではない。ソクラテスは必ず死ぬという、結論に関するものでもない。 演繹法において、それが持ち出されるときは結論はむしろどうでもよくて、「大前提の理念共有」が目的なのである。小前提、結論で、これを言い訳できている。一連の手順で、演繹という思惟の手順が共有・弁証の法則に化けているわけである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年04月25日 07時54分02秒
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