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カテゴリ:哲学研究室
詩は、うたである。
うたうことで感情を流浪させるが、こころは誓約の場に形式立て、封じ込める。 そして形式化された感情、つまり叙情を無限にインスタンス製造する。いわばこころが、庭という形になるのである。対象化すれば、もはや不気味ではない。 だから庭と一体化し損ねた眼差しの方が、いつまでもそこらを、さ迷うことになる。 不気味な者としてである。シュトルムのこの詩の中で、最後に出てくる森の女王のまなざしと言うのは、不気味である。叙情的に美しい情景が揃っているのに、不気味で見えない森の女王なるモノが、子供の金色の眼差しに宿っているというのである。 じつは「みずうみ」と題されることの多いインメン・ゼーも、同様の構造をもっていることに気がつく。平穏そうな日常のロマンチシズムの裏側に、底のない不気味さがあるのである。 夕闇の中に消えていくイムメン湖自体が、物語を写す瞳として、ひとつの眼差しとして底なしのまま控えるのである。 叙情的で美しいアーベントラントの森という「イメージ」が、私ども日本人にはあるが、これがそもそも、とんでもない食わせ物ではないかと思い出した。 日本人にとって、森は素人が容易に入れない、危険な山ノ神の領域である。 ドイツの森は良く手入れされた人工林で、そもそも日本のような山岳であったり奥深さがあったりはないのだが、もっぱら針葉植林の樹林なのである。彼らにとっても、森は分け入り難い、こころの庭の領域なのである。 そこに住むカッコーも、実はカッコーとかケッコーとは鳴かない。 そもそもこの鳥は他の鳥の巣に卵を産み付けて、先に孵った幼鳥はそこにあったタマゴを背負って捨てて、殺した幼鳥の親鳥の手で1羽だけ成長するという、とんでもない鳥なのである。 カッコーの巣は、幻視を見せるLSDにたとえられることもある。こいつはなんと、クッククックと、日本語で言うならクスクスと、人を小ばかにして笑う。 そして、ちゃんと寝ない子には砂小人がやってきて、眼に金の砂をかけていく。 現代の日本人が必ず惹起する最初の「イメージ」、それとは少し違う情景が、誓約の場の片鱗が見えてきたはずである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年05月10日 08時06分33秒
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