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カテゴリ:哲学研究室
魔王のように君臨した人物であっても、人生は夢幻のごときもの、である。
小生の述べてきた非常識な自然(対象物ではなくて、認識の場所を示す誓約の場のこと=庭)に関する論議で、この、人の夢を説明できるように思う。 一炊の夢は邯鄲の夢ともいう、もっと過去の似た話に、荘子の胡蝶の夢というのがある。 一炊の夢が示しているのは、人が蝶になって人の夢を見たのでも、蝶が人になって蝶の夢を見たのでもないが、構造が、どこか似ている。 よく言われる、人の世の栄枯盛衰は、はかないものであることのたとえ、なんぞでもない。 荘子の胡蝶の夢同様、「すべて人の認識が、もともとねじれて逆なのである」ということを告げている。 人の運命を裏返しに見返して、gar-dinとして自然(たまたま、おのずからあからさま)な誓約の場所(トポイ)を示しているのである。 つまりゲシックをもたらす庭を、論議に載せているのである。 一炊の夢の場合、その居場所は特殊な枕である。 時間手順を操って、運命を命運にしてしまう、枕である。 [私どもが(近代的対象化認識で)直面する現実というのは、そのすべてが仮想の現実なのである。]ということを悟らせる枕、なのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年06月08日 08時34分21秒
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