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カテゴリ:哲学研究室
古今東西のソフィストたちは自然(フィシス)を様々に解釈して見せてくれたが、自然という対象物(ナチュラルなモノ)がある、わけではなく、それは人の側に責任がある認識の基礎形態を言うにすぎない。
デカルトが見出したコギト・スム(考える・ある)の中に、すべてがある。 精神の中にすべてがある、観念が世界を作る、そういった理念的なことではなくて、人がコギト・スムという認識の場で受け取り、捌きつつあるソコの場所の共有の出来事を、自然(じねん)、と呼んでいるにすぎないのである。 この誓約の場を離れて、自然(じねん)はない。 ナチュラル(純粋素材)というスキエンチアの思想が語るモノは、全くの別物である。 これはじねん(露)ではなく、しぜん(たまたま)でもない、「イデーで構想し、企画して仕上げた生の素材」なのである。目的(の場所)を隠した人造のシロモノである。 この区別は基礎となるモノなので、過去の翻訳の誤りに追随してはいけない。 ナチュラルを自然と訳すのは、スキエンチアの騙る偽の形而上学を背負うことになる。 それだけではなくて、伝統の自然を喪失し、日本語の過去が一切、途切れて見えなくなってしまう。 何度も何度も繰り返した言葉であるが、現代の常識では、これが起きてしまっている。人々は虚偽の日常の中で、誤った想定の地盤で暮らしている。 これを正すのは哲学の本来の使命なのである。無知を見出して、弁証することが任務だからである。 そしてコギト・スムの場を瞬間だ、今だ、というのは西洋人であるが、過去の中国人である荘子や一炊の夢の物語は、その今を裏返して生涯にして見せてくれていた。ゲシックは露だった。 聖アウグチヌスは時間、という人間側の闇に、その語りえない秘密が隠れているのだと明言し、ドゥンス・スコトゥス先生は、経験的認識の中に先験的に(時間をよじって)含まれるバーチャリターこそが人の現実(という自然)なのだ、ということを明らかにしてくれた。 哲学が見出すべきなのはこれらの概知の無知、であり、イデーという目的を隠した「未知の自然」という名の形而上学ではない。 人の側に責任がある、(自然な)認識の闇の「無知」を明らかにすること。 これが隠れて続いてきた哲学の隠れなき目的であり、ソクラテスの掲げた哲学の共有理念だと思う。 共有されなければ、無意味な理念でもある。カルトからポアされてしまう。哲学者ではなくなる。 十全にすべてが見えているわけでない人という社会的な生き物にとって、これは必要不可欠な理念であり、その学なのである。なのに、なぜ踏みつけにされねばならないのか。 人の側に責任がある、ことを認めないのか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年07月02日 07時05分10秒
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